第1章

3/32
0人が本棚に入れています
本棚に追加
/32ページ
 何故、この鬼火に導かれなければならぬのかという根拠──  常人ならば咄嗟に思いつくであろう、これら疑点の類など、訪問者たる女の脳に一切宿ることはなく、何らかの『理由』によって正常なる思考を悉く洗い流されているかのようですらあった。  事実、その『理由』は存在していた。  それは『声』。彼女の頭の中に直接響き渡る『声』であった。 『声』の主は不可視であれど、圧倒的な存在感を伴ったそれは女の思考を掻き乱すには十分にして余りあり、やがて、その精神を侵すまでに至っていた。 『声』とは、たった一文節からなる簡単な命令の言葉によって構成されたものであった。  ──「急げ」、と。 「──急げ、だと?」白い息を吐きながら、女は初めて声を発した。 「何を急げというのだ? この私に──公国の主にして、総大司教たるこの私に命令する貴様は何者だ!」  眼前の鬼火が不意に膨張を始めた。これに比例し発せられる青白き光の量が増し、氷雨に濡れし女の姿が照らし出された。  少女の面影を残した若き女であった。  唇には紅を施し、胸が大きく開いた黒き薄絹の衣を纏っていた。こぼれんばかりの豊かな胸。絶妙な曲線を描いた細い腰。異性を誘惑するには理想的な姿態であろう。  だが、その端正な顔は半ば狂気に侵された精神によって醜く歪み、瞳に宿る光は虚ろであると同時に、怒りめいた激情の色を宿すその様は、世辞にも魅力的な姿であるとは言えぬであろう。  女とはソレイアであった。  ソレイアは、肌に纏わりつく濡れた髪や衣服がもたらす不快な感触には意も介さず、言葉を紡ぎ続けていた。  未だ膨張を続ける、眼前の鬼火に向かって。 「貴様は誰だ?」──と。  ソレイアは、おのが頭に響く『声』の主が、眼前の鬼火であると察していた。  確証はない。だが、本能的に彼女はそう確信していた。  幾ら言葉を紡いでも、問いかけを続けようとも、ソレイアの頭に響く『声』は止む事はなく、彼女が如何なる思考を巡らそうとも『声』がもたらす圧倒的な存在感が、それを悉く押し流していく。  人間とは世で唯一、思考することを可能とする動物である。  故に、思考を阻害され、人が人たる所以を奪われ続けていく中、ソレイアは雨水が滴る髪を掻き毟り、耳を塞ぎ、そして叫喚の声を上げた。  止まぬ『声』に抗う為に。  心が軋む。
/32ページ

最初のコメントを投稿しよう!