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「先生。水が……怖いんです。顔を洗うのでも、水だと一瞬息が止まります。お湯なら平気です。体温より冷えた水に対して無意識的な恐怖を感じます」
緊張気味に俯いて話す目の前の女に相槌を打ちながら、俺はボールペンの尻で頭を掻いた。
20代前半のカジュアルな服装の女。日に焼けた肌。頬にはソバカス。長い髪は後ろで一つに束ねていた。
「斉藤さん、それは軽度の水恐怖症ですね。原因に心当たりはありますか? 幼少期に溺れたとか――…」
彼女は俺の言葉を遮り、いささか前のめりで強く言った。
「いいえ。全くありません、何も」
「……そう、ですか」
どうしたものかと俺はパソコンの画面に適当な文字を打ち込む。
――…記憶ほど曖昧なものは無い。
嫌な記憶は忘却の彼方へ。全くの嘘でさえ、つき続けたら実際に起きた出来事のように脳は錯覚する。
だから普通は『幼少期に溺れたかも』なんて誰でもありそうな事、キッパリ否定なんてできない。
「わかりました。では次回には催眠で過去の記憶を辿ってみましょう」
たぶんこの女は……自分でトラウマに纏わる記憶を封じている。俺の言葉を遮ってまで否定したのがその証拠。
無意識下で彼女は思い出したくないと耳を塞いでいる。
ホッとしたように「お願いします」と微笑んだ斉藤さんに俺は尋ねた。
「思い出さない方が幸せかもしれませんが、よろしいですか?」
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