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水の誘惑
彼女には見えていた。
ひさしぶりの水面が。ゆるやかに溢れ、こぼれ落ちるなみなみの水面。キラキラときらめいて誘うように彼女を待っている。
水浴びは久しぶりだった。
暑い夏には生き返るような気分になるだろう。
彼女は急いだ。
急いで水面の白い縁に足を掛け足先を水につける。
ひやりとした感覚が彼女の心を躍らせた。
彼女ははしゃいだ。それと共に心の底から怖くなってきた。この底の見えない水たまりに足を滑らせてしまったら、間違いなく溺れて命を落としてしまうだろう。
握力には自信が有るが濡れていて滑りやすいこの状況では落ちてしまうかもしれない。
彼女は躊躇した。
でも。冷たくキレイな水の誘惑には勝てなかった。
彼女はゆっくりと身体を浸からせていった。
落ちないように細心の注意を払って。
彼女は自分の身体が清められるこの時間がなによりも好きだった。
そのとき。
ドボン!
気を抜いた瞬間に彼女は水の中に落ちてしまった。
「きゃぁああああっ」
泳げない彼女は足のつかない水の中で命が消える恐怖にもがく。
「ぎゃぁああああああ」
もう大好きなアノヒトにも会えないのかしらと心めぐらす。
もがく足を誰かに水の底に引きずり込まれるような気がして恐怖が倍増した。
「きゃあああああぁ」
底知れない黒い影のようなものが彼女を包みこんでゆくようだった。
もがいても、叫んでも、そんなささいな抵抗は水の中では無に等しかった。
ただ絶対的強大な力がそこにはあり、体力を奪い、呼吸を奪い、生命力を奪ってゆく。
美しく清らかな水だった。
ただ身体を清めたいと思っただけだった。
まるでおいでおいでと誘っているような。なのに。一度足を滑らせてしまえば地獄のような苦しさが待っている。
こんな事になるなら水になど近寄らなければ良かった。
でも、出来なかった。圧倒的な魅力で彼女を惹きつけ、水は底知れぬ冷たい暗闇に引きずり込んだ。
彼女は薄れてゆく意識の中思った。
いやだ。
怖い。
助けて。
苦しい。
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