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「考えるなって」
俺がそんな思いに駆られていると、決まって吉田は声をかけてきた。喋るのも辛そうなのに無理をして。それで俺は正気に立ち返る。だが、男の死に際の表情が離れることはなく、ねっとりと俺の脳裏に絡み付いていた。
男の顔は、昼夜問わずどこにでも現れた。ある時は波間から顔を見せ、ある時は宵闇に浮かび上がり、また疲労から目を閉じるとほぼ必ず現出した。逃げ場などなかった。俺が発狂しなかったのは、単にそのための気力が尽き果てていたためであろう。
寝て起きて、海水を掻き出し、魚を捕らえ貪り食う。単調な生活は、原始時代のそれを思わせた。一日を感じる感覚はどんどん間延びし、死を身近に置く無間地獄は、数分単位で発狂して正気を失いそうな絶望感を運んでくる。
何度も海水を飲もうとして、何度も吉田に止められた。
俺の矮小な精神は、しかし吉田という男の存在で何とか瀬戸際にて踏みとどまっていたのである。
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