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平助の母がおっとりとした動作で羽織を差し出す。彼の持っている着物の中で紋付き袴の次に高級な代物だ。
「こちらの羽織でよろしかったですか?」
「はい、ありがとうございます母上。いやぁ、あの天下の吉野太夫に会えるなんて俺はもう今日死んでもいいです」
平助は羽織を抱きしめた。
「まあ、息子に死なれたら困ります。やはり行かない方がよろしいのでは。もしくは私もお供致しましょうか」
母は真剣な表情で平助を見つめる。
「母上、女性は吉原へ入れません」
「何故です?」
平助は困った表情を浮かべる。世間知らずで天然な母の過保護は平助が苦手とするものの一つだ。
そのとき、「旦那」と平助を呼ぶ声がした。
「銀か?」
平助の部下である岡っ引きの銀次郎がやってきた。
「源森橋の下で茶屋の看板娘の死体が見つかりやした」
「なに? 置いてけ堀でか?」
「それだけじゃあありやせんぜ。数本の質の良い釣り竿と猫の死体が数え切れないほど……」
「なんだって」
平助と銀次郎はすぐさま小石川の療養所を尋ねたが、すでに老女は姿を消していた。
美人と評判の看護婦の姿もない。
老女の家はもぬけの殻であったが、少女趣味の置物に混じって猫の死体がいくつもあった。
「こりゃ、とんだ収集癖ですね」
銀次郎は顔をしかめる。理性を忘れた老女には収集癖と魚好きだけが残ってしまったに違いない。
平助はいつかの老女を思い出した。
「私、綺麗で可愛いものが大好きなの」
そう言った老女は少女のように笑っていた。
老女にとって漆の釣竿も猫の死体も美人の娘の死体も綺麗で可愛いものだったようだ。
行方不明となった美人の看護婦も収集品の一つとなってしまったに違いなかった。
源森橋の堀とは違う錦糸町の堀が置いてけ堀と呼ばれるようになったのは、それからひと月後のことだった。
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