おいてけぼり

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或る夏、江戸本所。昼間は活気溢れる下町も静まりかえる真夜中。人も動物も寝静まる夜のしじまに、ちゃぽんと水音が響く。 小間物問屋の御曹司である彦一は、暗がりの堀に釣り糸を垂らした。今夜、そうするのはもう何度目か。 夜の隅田川周辺で大物の鱸(すずき)が釣れるという噂を聞いて、趣味として釣りを始めたばかりの彦一は、その大物を狙って水面を見つめる。釣り仲間へ自慢が出来るほどの鱸を何としても釣り上げたいのだ。 隅田川から続くこの堀は釣り人にあまり知られていない。 「ここは、絶対穴場だ」 臆病者の彦一であるが、大きな目的の前には臆病風は吹く気配も無い。 静かだった。真夏の夜であるのに蚊一匹飛んで来ない。ただ彦一の呼吸だけが規則正しく聞こえた。 彦一はじっと浮きを見つめる。 「……!」 浮きがわずかに震え始める。 「まだ遊びだ。頼む、食いついてくれ」 その瞬間、ぐんと竿がしなる。 「食った! 大きいぞ」 釣り糸はぴんと張られ、堀の中をあちこち動く。彦一は大物であろう魚と格闘する。やがて、釣り糸の先に銀色に光る魚影が見えた。 「やった、鱸にちがいない」 とうとう彦一は自分の右腕ほどの大きさの鱸を釣り上げた。えらに手を差し入れ掲げて見る。 「うわー」 見た目も大きいが、その重さもさすがだ。鱸は月明かりにぎらぎらと鱗を光らせた。 「帰ったらすぐ魚拓をとって、夜が明けたら呉服問屋の権八さんに見せに行こう。いやいや、魚拓を見せるより実物を見に来てもらった方がいいかな。ハハハ」 彦一は帰り支度をしながら、わざとらしく大声で独り言を言い、笑った。興奮が収まってきたら、急にうすら寒く感じる。大声を出せば恐怖も飛んでいきそうな気がした。 「さぁて、帰ろう帰ろう」 彦一は、さっさと堀に背を向けた。夜風がひゅうっと音を立てる。 「……置いてけ」 「へ!?」 夜風に混じって聞こえた声に彦一は身を縮めた。辺りを見回してみても誰の姿も見当たらない。 「なんだ、気のせいか」 「置いてけ」 今度はもっとはっきり、そして苛立たしげに聞こえた。 「置いてけって何をですか」 彦一は震える声で、声の主に尋ねた。 「置いてけーーっ」 「ひーーーーっ! すみません!」 彦一は釣り上げた大物の鱸も釣り道具も一切を放り投げて逃げ出した。 しばらくすると、堀から緑色の手が伸びてきて、地面を跳ねる鱸を掴んで堀へ引きずり込んだ。
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