おいてけぼり

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眠れぬ夜がやってきた。夜空に浮かぶ月は落ちそうなほど大きい。月明かりに、りりりと短く虫が鳴いた。 「気持ち悪りぃ。銀の野郎も連れてくりゃ良かったな」 平助は表情を歪めて釣り針にミミズを刺し、堀に釣り糸を垂らす。水面は夜の闇を写したように真っ黒だ。 「置いてけ堀ねぇ」 昼間の道具屋の言葉を思い出す。彦一の言っていたことは本当だったようだ。 「妖怪なんて存在するのか?」 妖怪退治の鬼平という異名を持つ平助だが妖怪の存在は信じていない。なぜなら今まで平助が退治したとされる妖怪の正体は、すべてが動物や自然現象であったからだ。 平助は堀の側の藪や、木の陰を見る。 (きっとどこかに浮浪者が隠れていて、釣った魚欲しさに妖怪を演じてるに違いねぇ。さっさと、とっ捕まえて吉野太夫に会いにいってやらぁ。もしかしたら看板娘の居場所もつかめるかも知れねぇし。吉原行きも捜査の一環だ) その矢先、浮きがちゃぽんと水中に引き込まれた。平助の手に釣り竿を通して振動が伝わる。 「お、嘘だろ? 釣れたか?」 釣り糸は堀をあちこちと動き回る。 「おお、ずいぶんと威勢がいいじゃねぇか」 素人の平助は力任せに竿を引いた。 すると、大物の鱸が掘から空中へ投げ出され、背後の地面に叩きつけられた。 「うおー、釣れた」 月明かりに光る銀の鱗。大きな鱸が地面を跳ねている。 「俺にもこんな大物が釣れるなんてな。ハハハ」 あまりにも簡単に釣り上げられたことに高揚した平助は本来の目的を忘れた。 「こりゃ、料理屋に持ち込んで」 「置いてけ……」 はっとする平助。 (そうだった。出たな……) 河童とやらの正体を突き止めてやると平助は息巻いた。 「置いてけっていうのは俺が初めて釣ったこの鱸か?」 声のする藪に向かって尋ねる。 「置いてけー」 声はそれしか言わない。 「置いてけーっ!」 (はいはい、ここで置いてく訳だ) 平助は釣り竿と鱸を地面に置いて去る。……というふりをした。堀と地面を跳ねる鱸が見える藪に身を潜める。 しばしの静寂。 水音とともに堀にかかる藪から手が現れた。 平助は目を細める。ちょうど月に雲がかかり見えづらい。 もう片方の手が藪から現れる。すると雲が切れた。 「……!」 平助は息を呑む。藪から伸ばされた二本の腕は人間のものではない。ぬめぬめとした緑色の肌が月明かりに照らされる。
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