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第一章
新しい朝がきた。気持ちのいい朝である。見上げれば雲ひとつない青空が広がっている。柔らかな日差しが街に降りそそぎ、穏やかな風が翠緑の木々をかすかに揺らしていく。どこからか可愛らしい小鳥の囀りが聞こえ、澄んだ空気が呼吸とともに全身に染みわたっていく。素晴らしい一日を予感させるような気持ちのいい朝である。
そんな気持ちのいい朝の景色のなかを、気持ちの悪い男が自転車で駆け抜けていった。
気持ちの悪い男というのは少々表現が過ぎたかもしれない。しかし、今朝の爽快感とは相容れない風変わりな男であることは間違いない。
まず目を引くのは、まるで海藻を盛りつけたかのような無造作な髪型である。肩のあたりまで伸ばした黒髪は無秩序にうねり、常人の数倍にならんほどのボリュームになっている。髪質は亀の子束子の手触りを想像してもらえばよい。きしきしのごわごわである。顔には瓶底のようなレンズがはまった眼鏡をかけ、痩せこけた頬から顎にかけて無精髭が伸び放題になっている。紺色の作務衣に全身をつつみ、鶏がらのような足には歯のない下駄を履いている。
いつの時代からやってきたのか。この平成の世にはまるで似つかわしくない風貌である。
自転車もこれまた不格好であった。いたるところ錆にまみれ、前かごは大きく凹み、こぐたびに「キャタキャタギイギイ」と奇妙な音を立て、ブレーキをかけるたびに「キイイ」と黒板を引っ掻いたような不愉快な音を響かせている。
奇怪な男が髪を振り乱し、眼鏡を斜めに傾かせ、激しく息を切らせながら、必死の形相で自転車をこいでいる。
どこからどう見ても不審者であったが、近所の住人も慣れたものである。飼い犬を散歩させている女子高生も、植木に水を遣っているおばさんも、庭で体操をしているおじいさんも、「ああ、あの人か。いつも同じ服を着ているけれど、いったい何着持っているのかしら?」くらいにしか思っていない。普段と変わらない朝の風景なのである。
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