第一章

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「神社といえば、橘君は毎朝神社にお参りしているんだ」 「毎朝?」 「そう、毎朝。雨が降ろうと、風が吹こうと。今ちょうど神社にいるころじゃないかな?」  言うまでもないと思うが、「橘君」というのは、桃色の妄想にまみれた願望を胸に恭しく柏手を打っている橘虎太郎のことである。白川君と黒山さんは橘君の二つ上の先輩にあたる。橘君と同じ学科を卒業したのちに大学院へと進学し、現在は修士二年である。講義などで主に利用している建物が同じで、ゼミで一緒になることもあるため、この三人は頻繁に顔を合わせていた。 「病気の家族でもいるのかしら?」 「いや、そういうのじゃないと思うよ」  白川君は苦笑しながら答えた。「多分、恋のお願いとかじゃないかな」  慧眼である。白川君は橘君の本性を見抜いている。見抜いているにもかかわらず、「恋のお願い」と表現してあげるあたりに、彼の上品な人柄がよく表れている。恋のお願いである。甘酸っぱい青春の香りがするではないか。「好き、嫌い、好き、嫌い」とコスモスの花弁を一枚ずつちぎる恋する乙女の姿が浮かんでくるではないか。不純きわまりない橘君には、まるで相応しくない表現ではないか。 「恋のお願い! 橘君が?」 「驚くことじゃないだろうに。誰だって恋くらいするよ」 「いつも大人しくて、恋愛とかには興味がないように見えるけれど。猫を被っているのかしら?」  黒山さんの指摘のとおり、橘君は大学では猫を被っている。目も当てられぬ桃色の妄想を表に出すことはなく、真面目で大人しい青年を演じている。しかし、それでいいのである。程度の差はあれ、誰しも猫を被っているものだ。誰もが本性のままに生活していては社会は成り立たない。  もし橘君が「誰もが思わず振り返るような美人で、胸は大きく、お腹はきゅっとくびれ、お尻は大きめながらも引き締まり、太ももはマシュマロみたいに柔らかく、性格は優しくておしとやか、今まで誰とも付き合ったことがなく、一途で浮気なんかせず、純真無垢でありながらも少しだけエッチな恋人がほしいんです。誰か紹介してください」などと言い出したら、黒山さんは翌日から橘君を避けるようになるに違いない。桃色の妄想は頭のなかに留めておくべきなのだ。
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