第一章

14/17
前へ
/17ページ
次へ
 さて、ちょうどその頃、東京都文京区本郷、理学部化学科のとある研究室にて、一人の男がガスバーナーと三脚、ビーカーの中学理科三種の神器をつかってお湯を沸かしていた。狐を彷彿とさせる切れ長のつり目が特徴的である。その目が隠れるくらいの長い髪を明るい茶色に染め、ワックスで整えている。染みひとつない白衣に身をつつんでいることを除けば、いかにも今風の若者である。  研究室には雑多な器具や薬品が所狭しと並べられている。学校の理科室を思い出してもらうと分かりやすいが、埃っぽいような、黴くさいような独特のにおいが充満していた。あまり食欲が湧くような環境には思えないが、彼は今か今かとビーカーを眺めている。待つこと数分、十分に沸き立ったのを確認すると、ビーカートングを上手につかって「ペヤング超大盛焼きそば」の容器にお湯を注いだ。 「理系の一日はペヤング超大盛焼きそばからはじまる」  誰にともなく呟いた。部屋の隅にはポットがあるのだが、決してそれはつかわない。「薬缶は常道。ポットは邪道。ビーカーは正道」とは彼の言葉だ。研究室で夜を明かした翌朝には、ビーカーで沸かしたお湯を注いでつくったペヤング超大盛焼きそばを食すのが彼の流儀であった。過言であった。別に流儀ではない。ただの気紛れである。ビーカーでお湯を沸かすのは、薬缶やポットをつかうよりも理系らしい気がするというだけの理由である。  名前を桜井日向という。桜井君自身は未だ研究のいろはも知らぬ学士三年である。たびたび院生の先輩の実験に付き合って、研究室で夜を明かしている。付き合うといっても、彼は今みたいに実験器具で遊んでいるだけである。
/17ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加