第一章

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 名前を橘虎太郎という。「とらたろう」ではなく、「こたろう」である。お間違えのないように。  橘君の名誉のために言っておくが、彼は決して悪人ではない。現在まで他人に危害を及ぼしたことはなく、これからも及ぼすことはないであろう善良な市民である。風貌はやや変人もとい完全なる不審者であるが、隣人として生活するぶんには良識的な人間である。そうでなければ、とうの昔に近所の住人に通報されていたであろう。  橘君は何をそんなに急いでいるのか。いったいどこに向かっているのか。  今日は七月初めの金曜日、現在の時刻はまもなく午前七時というところである。場所は東京都北区上中里。東西方向に走っている京浜東北線を境にして、南側の一丁目は武蔵野台地に属する高台、北側の二丁目と三丁目は隅田川沿いの低地にある。橘君の住むアパートは二丁目にあり、今は一丁目の方向に自転車を走らせている。  狭い道路が入り組んだ住宅街を抜け、京浜東北線沿いの坂道をのぼっていく。線路をまたいで南北を繋いでいる車坂跨線橋をわたり、右折した先にある攻坂と呼ばれる坂を再び駆け上がっていく。ほぼずっと上り坂がつづくために、橘君の額には汗がにじんでいた。  自転車をこぐこと数分、橘君は一丁目にある平塚神社の駐車場に自転車を停めた。創立は平安時代後期とされ、源頼朝や足利将軍家の先祖である源義家と、その弟である義綱、義光が祀られている歴史の長い神社である。 「なんとか間に合ったか」  左手の腕時計で時間を確認すると、ふうと安堵の吐息をもらした。乱れた呼吸を落ち着かせながら、手水舎で手と口を浄める。拝殿の前に立って一礼すると、賽銭箱に五〇円玉を投げ入れ、鈴をがらんごろんと鳴らした。それから恭しく二礼二拍手一礼すると、真剣な表情で何かを祈願している。  作務衣と下駄という格好は、街中にいると不審な印象を受けるものであるが、神社という空間においては違和感がないものである。もとは禅宗の僧侶が身につけたものというから、宗教的な空間には適っているのかもしれない。
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