第一章

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 もう少し詳しく橘君のことを説明しておこう。  彼は東京都文京区本郷にある国立大学に通っている。現在は学士四年である。文学部歴史文化学科日本史学専修課程に所属しており、主に鎌倉・室町を中心とする中世の武士政権のことを専門的に学んでいる。  勉強はできたが、それ以外はからっきし駄目であった。シャトルランをすれば女子よりも早く脱落し、サッカーをすれば止まったボールを空振りするほどの運動音痴である。絵の才能や音楽の才能もない。また、どうしようもなく不器用で、料理や裁縫、細かい作業は全般的に苦手である。  そして、最も悲劇的なことに、橘君は女性にもてなかった。彼は今この瞬間も「年齢=彼女いない暦」を更新しつづけている可哀想な男である。もちろん童貞である。破れた恋は数知れず。枕を濡らした夜も数知れず。  橘君は毎年七夕の夜に告白しては悉く玉砕するという苦い経験をもっている。彼は「七夕の夜。天の川の下」というシチュエーションをロマンチックなものだと信じて疑わなかったが、狙いすぎていて気持ちが悪いだけであった。彦星にでもなったつもりだったのだろうか。なったつもりだったのだ。「もし一年に一度しか会えずとも、僕たちの愛は永遠である」と思っていた。思っていたし、実際にそんな台詞を吐いていた。  そんな告白をされた女の子たちは「なんて気持ちのわるい男なのだろう」と思っていたに違いなく、数人は「気持ちわるいよ」と直接口にしたわけであるが、ロマンチックな気分に酔いしれている橘君には馬耳東風であった。彼がその行為の過ちに気づくのは随分と成長してからのことだ。自身の愚かさに気づいた橘君は、悲嘆と羞恥で天の川をも氾濫させんほどの滂沱の涙を流したのである。
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