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「なんてタイミングがいいの。あと三分でバスが来るわ」
バス停に誰もいない。カンナは屋根の下のベンチにそっと腰掛け、荒い呼吸が収まると鞄を左側に置いて深いため息をついた。カンナは少しだけ虚ろになった。
カンナに姉がいた。彼女は三年前に病気で亡くなったのだけれど、カンナと違って物静かな女性だった。将来音楽大学へ進みたいと言っていた姉は、一日何時間もピアノに情熱を注ぐ人だった。
「お姉ちゃんの指は魔法がかかってるみたい。どうしてこんなに早く動くの?」
「カンナも練習すれば上手になるわ」姉はカンナに優しく囁いた。
「でもね。私の手に魔法はかからないみたいなの。だけど私はみんなと歌を歌いたいから練習するの」
そう言ったのはカンナが小学校五年生の時。姉に倣ってピアノのレッスンを受けたものの、姉に比べ才能がないのか上達の速度がゆっくりだった。その差は歴然としていた。言い換えればカンナのそれは趣味程度。けれどカンナは満足していた。ただし、「それ」とは、もう一つある。それは姉が生存していたからあったようなもの。だから姉を失って積み木が崩れるようにカンナの小さな夢はガタガタと壊れ、それ以来カンナはピアノの重い蓋を決して開けようとしなかった。カンナは姉が大好きだった。
ところで、母に頼まれたお遣いだけれど、店の名前は確か「勘太郎」と言った。その名から少なからず和菓子店だと想像できる。
和菓子はすぐに完売してしまうからカンナのあの慌てぶりが理解できるであろう。
バスが来た。乗車時間はおよそ十分。
カンナはバスの窓から景色を眺めた。彼女は小さな山と池の見える「杜若公園前」で下車するのだけれど、この辺りの歩道は四角く刈った茶の木が膝の高さで植えてある。そのため一年中緑色だったが、春の公園は多種類の花が彩り白や黄色、黒い蝶が舞った。そればかりか水辺に凛とした大勢の女性が、いろいろな友禅の色留袖を着ているように菖蒲が咲き並んだ。その美しさは水に映り仄かに揺れた。カンナは春が大好きだ。
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