§ 第1章 二つの波 §

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 店のすぐ手前に細い砂利道がある。道を辿ると立派な門構えがあった。多智花はその道をあたふたと駆けてガラガラと玄関を開けたが、「ただいま」と、挨拶すらしなかった。不行儀に鞄を抛り無作法に靴を脱ぐ様は頗る酷い。ある意味盗人の方が礼儀正しいかもしれない。それからギシギシと廊下を走り突き当りの扉を思い切り開けて店の裏側へ入ったが、運悪く店専用の草履がなかった。多智花はその場で頭を掻きむしり右往左往して靴下のまま店へ飛び込んだ。暖簾(のれん)一枚を超えると閑静な店内だった。 「すみません」いい塩梅にカンナが店員へ呼びかけた。多智花はなぜか両耳を塞ぎ目を閉じた。 「俺は何をしているんだ?」彼は我に返ったが今度は騒ぐ心臓を拳で押さえカンナの様子を窺った。 「桜餡蜜を三つ。抹茶餡蜜を一つ下さい」穏やかな声は多智花の心を半分射抜いた。 「あいつ桜餡蜜、買ったのか……」  多智花は祖父に言われ桜色の寒天作りを毎朝手伝っていた。  彼は無心になるこの時間が意外と好きだったが、和菓子店はどちらかと言えば若い女性と無縁だと思っていた。店を訪れる客の層は大体決まっていて、高校生が来店するのは珍しい。つまり地味な和菓子を茶道部以外の高校生が買いに来るとは考えもしなかった。  多智花は店まで来た経緯(いきさつ)をすっかり忘れていた。今は嬉しさと同時にカンナがそれを気に入ったかどうか、寧ろ知りたかった。 「有難うございます。またのご来店お待ちしております」客を送る店員の声がした。  多智花は暖簾の隙間を僅かに開けて店を出るカンナを愉し気に眺めたが、ふっと経路を逆戻りした。  多智花はこの時ばかり無造作に脱いだ靴を後悔した。と言うのも焦り過ぎて足と胴体が別の動きをしていた。そのためすんなり靴を履けなくて時間を微妙に失った。  彼がカンナを見つけた時は丁度バスに乗車したところだった。 「俺のスーパーボール……」確かに多智花はがっかりしたが、彼の心は満更でもなかったようだ。  image=503104846.jpg
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