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「湖に行こうよ。」
「行かないよ。」
いつもみたいに蝶谷君の自転車の荷台に乗っていたけれど、私は彼にそう答えて飛び降りた。
「なんで。」
「お母さんが、危ないって。」
不満そうに蝶谷君は頬を膨らませている。それを放っておいて回れ右して歩き出すと、しぶしぶと私の後を追いかけてきた。
この村に私と年の近い子供は、蝶谷君しかいない。
「蝶谷君のお母さんもあそこで亡くなったの?」
「そうだよ。」
「あの蝶の標本、蝶谷君のお母さんに似てたね。」
くすくす、と蝶谷君の笑い声が聞こえた。振り返ると、蝶谷君は満足そうな顔で笑っている。
「橘さんは何色が好き?」
「なんで。」
「ピンクと赤と青の額縁を買ったんだよ。標本用の。」
「そうなんだ。」
駅に来て、蝶谷君は自転車を駅舎の横に置く。無人改札をくぐって、二人並んで電車を待つ。ひらひらと、どこからともなく蝶が飛んできた。
「あのさあ。蝶谷君て私のこと嫌いなの?」
「大好きだよ。」
即答だった。頬を赤く染めて、蝶谷君は大きく頷いていた。
「昔飼ってたハムスターとか金魚とか犬とか猫とかも?」
「うん。」
「でも一番蝶が好き?」
「うん!」
ジリジリとホームのベルが鳴る。もうすぐ電車が入ってくる。
「蝶谷君さあ。」
「橘さん、見て。」
蝶谷君は背負っていたリュックをおろして、中から標本を二つ取り出した。
「これ、奇麗にできたんだ。また雑誌の人に褒められたんだよ。もう一度僕の写真が本に載ったら、見せてあげるね。」
見せられた蝶の羽の模様は、あの湖で沈んだ二人の男の顔によく似ていた。
「橘さんは、赤とピンクと青、どの色の額縁が好き?」
「どれも嫌い。」
今日はこれから、蝶谷君と山の向こうの駅で遊ぶ。
この村には蝶谷君しか遊ぶ友達がいないから、これからも蝶谷君と二人、大人になるまでずっと一緒に過ごしていくんだろう。
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