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「私の夫、ここで亡くなったの」
彼女のセリフに思わず反応して、動きを止めてしまった。
「夫?」
「そう。ちょうど今、あなたが立ってる場所。泳げないのに、そこから落ちて溺れたの」
「へ、へぇ」
結婚してたのか、とガッカリしたのは一瞬だった。
おっかなびっくり桟橋から首だけ出して覗きこむと、湖の底は思った以上に昏くてゾッとする。
こんなところに落ちたら、泳げる人だって怖くて溺れてしまうんじゃないだろうか。
俺は落ちないようにしよう。
だって俺も、泳げないから。
「ここね、こんな見事な夕焼けの日は、この世とあの世をつなぐ道ができるんですって。道というより、橋かしらね」
彼女の口調は詩でも朗読しているかのようにリアリティがなくて、独り言なのか俺に言っているのかわからない。
「知ってる? 事故で急に死んでしまったり、突然命を奪われしまった魂は、自分が死んだことに気がつかない。だからあの世への行き方もわからない。彷徨っているうちに自分が誰だったのか、誰を愛していたのか、そんなことを全部忘れてしまって、何も見ず何も感じず、ただ自分が死んだ場所に取り付く存在になるの」
「それって、地縛霊とか言うやつかな」
ついうっかり、話に乗っかってしまった。
こういう手合は、刺激しないようニッコリ笑って無視するに限るっていうのに。
「そう。そんな成仏できない魂が、安らかに彼岸へ渡るための橋。それが、これよ」
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