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気が付くと、男は館の玄関で倒れていた。
記憶を整理しようと試みたが、意識が急激に闇に落ちて以降の記憶が全く無い。仕方なく起き上がると、男は周囲を見回し、そして目に飛び込んできた光景に絶句した。
廃墟であった。床、壁、右手の棚と問わずに埃が積もり、シャンデリアには蜘蛛の巣が張り付いている。特に床のカーペットは至るところに虫食いの穴が開き、くすんだ茶色へと変色してしまっていた。
男は周囲を見渡した。天井には大穴が開き、そこから白い光が差し込んでいる。その光の先に、絵画が見えた。大きな額縁に納められたその絵の表面は部分的にはがれていたが、全体像は見紛う事無く見て取れた。周囲を大量の蔦で覆われた、大きな館。流動的な屋根、塔のように聳え立つ分館。その姿を見て、間違いなく「草迷宮」を描いたものだ、と思い当たり、男は確信を得るに至った。
と、その時、廊下の奥で低く柱時計が鳴った。
15メートルほどの暗い廊下を歩む。柱時計もやはり汚れ、埃で汚れていた。時刻は、9時丁度。差し込む光を見る限り、峡谷はとっくに朝を迎えているのだろう。もう一度時計に目をやる。よく見ると、中の振り子が動いていなかった。男は目を丸くした。更によく見ると、時計の内部は赤茶色に錆び付き、少し傾いたまま固まってしまっているではないか。
男は急に、この場にいることに恐怖を覚えた。
男は館を飛び出した。峡谷は薄暗く、耳が痛くなるような静寂に包まれていた。大量の蔦が根を張っていた。男は凍りついた小川に沿って谷間を走った。川沿いを下り、谷の端へと走り、走り、走り続けた。外気は身を切るような冷たさであったが、構う事無く走った。と、複雑に入り組んだ蔦に足が引っかかり、転んだ。その時、男の山羊皮の上着から何かが飛び出し、氷上に転がった。昨夜――かどうかは確信がもてなかったが――あの黒髪のメイドに渡された、「歴樹」の種であった。黒光りするそれをじっと見つめた男は、迷った挙句それを拾い上げ、また上着のポケットに納めた。そうすると不思議と、自身の中に沸き上がっていた得体の知れない恐怖心は薄らいで行き、きりきりと身を叩いていた心臓の鼓動も、不思議なほど自然に収まってゆくのだった。
薬草摘みの男は幽谷の底を一人、凍る川に沿って下る。
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