草迷宮

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 部屋の中心には、巨大な一本の木が、その根を下ろしていた。  時に男は、腰を抜かしかけていた。塔のように果ての無い天井に、その幹はどこまでも続いている。上界からは幾十、幾百ともつかない蔦が下り、壁、床と見境無く空間を埋め尽くしている。細い蔦の先には、まるで水晶球のような、自ら青白く輝く球体が付着し、周囲の闇を仄かに照らし上げていた。その数は一つや二つではない。はるか上方、延々と続く天井に向って、大小含めて数千は下らない無数の球体が輝き、煌々と、荘厳の大樹の存在を知らしめていた。 「…そこで私は、人々の記憶を預かる仕事をしよう、と考えたのであります。」 メイドは静かに、その口を開いた。 「ここに浮かんでおりますのは、今日までにお預かりしたお客様の、記憶群でございます。中央の大樹は『歴樹』と呼ばれる種類の木の大木で、樹齢こそ150年と若いものですが、恐らく、この世界に残る中では最大のものではないかと思われます。」 その存在たるや、絶対的、しかし同時に儚く、触れる事すら躊躇われる。 「お客様は様々な記憶を残して行かれます。快楽の記憶、悲哀の記憶、歓喜の記憶、憤怒の記憶…それぞれの記憶は『記憶晶』として、ご覧の通り水晶の形を成し、『歴樹』の枝に繋がれる事で保存され、永久に輝き続けるのでございます。」 膨大な記憶晶から、何かよく分からない力――威圧感にも似た何かが発せられている。男は思わず後ずさりした。それを見たメイドは例のごとく小さく笑みを浮かべると、 「貴方様にも、置いて行かれた過去達の救いを求める声が聴こえるのですね。」 と言って、静かに男の手を取った。メイドの掌は、思いのほか暖かであった。無音、静寂。しかし何者かの囁き声が聞こえるような気がする。その声無き声は、一人、二人のものではない。それこそ数百、数千、数万の人々の囁き合う声を、男は明らかに感じていたが、実際その周囲は極めて静かなままであった。
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