葵の章

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「かすがの、つぼね…」 歴史に疎い私でも、 江戸城大奥という大組織を築き上げたその人の名は、 決して耳に新しい響きではなかった。 生前はその権威を大いに振るったであろうこの人の人生は、 私の平凡な人生からはきっと想像もできないくらい、 栄華に満ち満ちていたんだろう。 そんなことを思いながら、 すっかり自分の置かれている状況を忘れて、 その生涯をかたる立て看板の文字を目で追っていると。 ――――もし、そこの女子(おなご)。 耳慣れない言葉とイントネーション。 なのにすぐそこから、はっきりと聞こえたその声。 私は全身を震え上がらせながらうしろを振り返った。 お寺の住職さんであって、どうか。 そう願うもひとの姿は辺りにはなくて、 私の頭の中はさっきの声だけが反芻してる。 ――――煩悩を… 「……や、嘘、でしょ…?」 喉まで震えるほどの恐怖を、 どうすることもできずにそこに立ち尽くす。
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