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古い言葉に「誰そ彼」というものがある。
日没が近づけば不穏な闇が迫り来て、家路へと向かう足も早くなる。
住み慣れたはずの町も一変し、通りの向こうにいる薄ぼんやりとした人影も、はたして誰であっただろうかと気にかかる。
見知ったあの人ならば声をかけてくれるはずなのに。
通りすがった人影に首をかしげる。
「誰だろう、彼は」
まるであの世とこの世の境界に紛れ込んでしまったような胸騒ぎが黄昏時にはあった。
そしてまた不安に拮抗するよこしまな知恵がうごめき始める。
その男は夕刻になるとどこからともなく現れ、訪れる闇に己を隠すようにして徘徊した。
通りかかった者の首を真一文字に切り裂き、誰に見つかることもなくどこかへと去った。
令和の切り裂きジャックとマスコミが騒ぎ立てるようになっても、その男の仕事は見事であった。なんの恐れも抱かず、躊躇もせず人を殺した。
鮮やかに九人目の女を仕留めた時、そろそろこの揺らぎのない衝動にけりを付けてやろうと吾輩は声をかけた。
男は慌てる様子もなく、しわがれた声帯を震わせて応じた。
「誰だ、お前は」
「吾輩が見えるかね?」
男はナイフを握りなおしただけで襲いかかろうとはせず、吾輩をじっと見据えた。
それでも虚ろな目つきは変わらなかった。
空っぽな心の奥に潜む憎しみに促されながら、終わりの見えぬ殺戮に溺れていた。
なんと悲しいことか。
だから吾輩は単刀直入に言ってやった。
「お前さんはすでに死んでいる」と。
男はさして驚くでもなく、納得したように目を閉じた。
ただそれでも男は生前の記憶が戻らないようだった。
だが、吾輩には見える。
細く開いた窓から心地よく吹きこんだ風。そよぐカーテンのたもとに置かれたベッド。
男の傍らには女が寄り添っている。
女の方は胸から血を流し、男はナイフを握りしめて自身の首を深く刺していた。
男は、無理心中に見せかけて殺されたのだった。
「記憶をなくしたか? だが、お前さんが唯一覚えていること。捜しているのはその顔じゃないかい?」
男の顔を指すと、男は道路の角に立っているミラーを見上げ、己の姿を確認した。
血塗られたナイフを握りしめた男の姿が映っている。
死ぬ間際に見た顔。
自分を殺した犯人だ。
「お前さんが殺すべきはその男だ」
男はこの世にとどまっている理由を知ると黙って立ち去った。
黄昏の狭間へと身を寄せるように。
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