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ほとんど反射的だった。
「尋巳くん?」と呼びかけた時、尋巳は記憶のページを探りながらこちらをじっと見ていたものの、すぐに気が付いて笑みをこぼした。
「美由紀さん!」
名前を覚えていてくれたことに安堵し、あのころと変わらぬ笑顔で駆け寄ってきてくれたことがうれしかった。
4年ぶりに尋巳を見かけたとき、なにかを期待していた、なんてことはなかった。
美由紀が知っていた尋巳はまだ中学生で、大学生だった美由紀は彼の家庭教師をしていたのだ。
それから美由紀は結婚し、二児の母になって人生でやるべきことの大半を終えた気になっていたが、尋巳はいくつもの未来が開けている青年になっていた。
「尋巳くんも、もう大学生だっけ?」
「おかげさまで。いいとこに入れましたよ」
結婚したんだというと、「へぇ、旦那さんがうらやましいな」と、まんざらでもないことをいった。
「尋巳くんもすっかり大人になって」
「まだまだ子供だよ」
「もてるでしょ」
「まさか、全然だよ。もてる方法は教えてくれないの?」
「私のほうが教えてもらいたいくらいよ」なんて、そのときは冗談で言ってたのだが、連絡先を交換したのが間違いの始まりだった。
もうこれで最後にしようと何度思ったことだろう。
ずるずると終わらない関係を断ち切る時がきたのは、奇しくも妊娠だった。
恥じらいもなく、情欲に身を任せ、物陰に隠れて抱き合うことがあった。
あのときか、と思い当たる節がいくつもあった。
ともかく、夫ではない。
美由紀は尋巳を呼び出すと「別れましょう」と切り出した。「罰なのよ、これは」と。
「罰ってなんだよ。ばれたの?」
尋巳の方は責任の薄さからなのか、軽い感じだった。
「出来たのよ、子供が。早くおろさないと」
結論を相手に任せるのは怖かった。
自分が選んだ道なら惨めな気持ちにはなるまい。
その一方で期待もしていた。
尋巳が自分を奪うつもりならそれもいいと。
尋巳がその気なら二人の子供と夫を捨て、無一文で新しい生活をはじめたってよかった。
だが、ごめんね、と尋巳はいって美由紀を抱きしめた。
「どうすることもできなくて」
それが、大学生で未成年だった彼にできることのすべてだった。
あのときは、身ごもった子を堕胎するという選択肢しかなかったのだ。
まだ生命の存在を感じぬほどに小さいものだったじゃないか。
おろすことは法に触れない。
自分は殺してない。
殺してないんだ。
だってまだ小さかったんだもの。
妊娠九週目の胎児に自我などあるはずがなかった。
そんなことより、夫に異変を気づかれまいとすることに神経をすり減らした。
尋巳とも別れたのに、家庭を手放すわけにはいかなかった。
育児に疲れたふりをするのにさほど努力は必要なかった。
自分の居場所はここだけだ。
もう二度とあんな過ちを犯してはならない。
だから美由紀はマイホームがほしかった。
後戻りはできない。いや、結婚したと同時に後戻りなんてできないのだ。
だから美由紀はあれは間違いだったと認める。
すぐに計画を立て、家が完成するまで十ヶ月もかからなかった。
それからすぐだ。
引っ越して間もないころ。
小夜子が、さゆりの名を口にした。
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