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K町に着くころには夕日が沈み、空が濃い紫色に染まり始めていた。
「お前、塾さぼったのママにばれないか」
エイジは先頭を走るチャメに訊いた。
「大丈夫。ママ――じゃねぇ――母ちゃんは塾に行ってるって信じてるし塾には休みますって電話したから。僕、どっちからも信用されてるからね。バレないよ」
チャメはしたり顔でエイジを振り返った。
「へいへい。チャメちゃんいい子でちゅもんねー」
そう言って笑うエイジを今度は並走するダンダが心配した。
「エイジは大丈夫か? こんな時間に家にいなかったら怒られるんじゃね?」
「へーきさ。オレんとこは放任主義だから。まあ娘だったらそうじゃなかったろうけど。
ところでババクンはどうなの?」
ダンダの事情はわかっているのであえて訊ねず、エイジは斜め前のババクンに訊いたが、
「黙って出てきたよ。きょうはふたりとも忙しいから、おれがいなくても気付かないんじゃないかな」
と前を向いたまま素っ気なく答えた。
ババクンはこういうこと訊かれるのなぜか嫌いだよなとエイジは思い出した。
チャメの自転車がきゅっと鳴って止まる。
「あそこだよ」
指さすほうには荒れ果てた垣根に囲まれた古い家があった。
「なんだ普通の家じゃん。幽霊屋敷っていうから蔦がびっしりの洋館かって思ってた」
「ほんとだ。マジふつー」
エイジとダンダは自転車にまたがったまま家を眺めた。
「本当に人、住んでないのか?」
ババクンの問いにチャメは大きく頷く。
エイジが自転車をユーターンさせ、今度は先頭に立った。
「よし、もう少し暗くなるまでどっかに待機だ。ここにチャリ止めるわけにいかないからさ、置く場所探そう」
そう言うと勢いよく漕ぎ出した。
みんなが後に続く。
***
居丈高に振る舞う夫への怒りがついに頂点に達した。
ある夜、狭いリビングに置かれた粗末なソファの上で、「茶を入れろ」と夫がふんぞり返った。
その一言でスイッチが入り、テーブルに載ったガラスの灰皿を手に取ると、新聞を広げて読んでいた夫の頭めがけて振り下ろした。
安っぽいくせに重量だけは十分にある灰皿は、ソファセットと共に居間に置くのがステータスだと考えている夫自身の購入したものだった。
**
「もういいかな」
エイジが顔を上げた。
近くにあるスーパーマーケットの駐輪場で待機することにした四人は携帯ゲームで時間を潰していた。
きょうは偵察だけのつもりなので、菓子や飲み物を購入しなかった。もしあそこを秘密基地にするなら、これからはこの店を利用しようと四人で決めた。
見かけない少年たちを不審に思ったのか、店員がガラス越しに視線を向けてくる。
咎められない間に自転車をその場に幽霊屋敷へと急いだ。
幽霊屋敷の横にある街路灯が夕闇に点灯し始め小さな羽虫を集めている。
暗くなってきたもののそんな遅い時間でもないのに周囲の家々はひっそりとしていた。
通行人もなく、人目のないのは安心だが、なぜだか落ち着かない。
悪いことをしようとしているからかな。
エイジはふっと笑った。
「何? 何笑ってんの?」
チャメが普通のテンションで訊いてくる。
「しっ」
エイジはあたりを窺い幽霊屋敷の安っぽい門の中にチャメを引っ張り込んで素早くしゃがみ込んだ。
ダンダたちも続いて門の中に身を隠す。
「声がデカ過ぎ。お前バカか」
声を潜めてダンダがチャメの頭を小突いた。
「ごめん、ごめん。てへっ」
「てへ、じゃないよ。ところでさ、門に鍵がかかってないってことは人の出入りが多いのかな。不動産屋とか」
エイジが眉をひそめる。
「でもこんな時間帯に来ねぇだろ」
そう言いながらダンダは腰をかがめたまま玄関のドアノブをそっと回した。さすがにドアはきちんと施錠されていた。
ダンダはそのままの姿勢で垣根と家屋の間を通って庭のほうへ向かった。チャメが同じ姿勢で後ろに続き、ウエストポーチから小振りの懐中電灯を出してダンダに渡した。
あまりの手回しの良さにエイジとババクンが顔を見合わせた。
***
男の頭頂部は妻の一撃で陥没した。
頭を押さえ呻いていた男は幾度も殴られ、やがて脳と脳漿が豆腐をぶちまけたように飛び散って血に塗れて息絶えた。
死体は妻によってリビングの掃き出し窓から庭へと血の跡を付けながら引き摺り出された。
**
こじんまりした庭は雑草が蔓延り荒れ放題だった。
垣根の所々が破損し穴が開いていたので通行人に見咎められないかとエイジは心配になった。だが、さっきと同じで道は人っ子一人通らず、隣近所の住人たちに見つかった気配もないのでひとまず安心した。
「なんだ、ほんとに普通の空き家だな。チャメが言ったとおり、近所のババアか不動産屋のおっさんが幽霊話を盛ってたんだな」
ダンダが締められた掃き出し窓から中を覗き込みながら鼻で笑った。ここもきちんと施錠されていたが、
「はい、これ」
チャメがウエストポーチからガムテープを取り出し、ダンダに差し出し、「ガラスに貼って割るとあんまり音がしないんだよ。テレビでやってた」としれっとした顔でいう。
「おいおい。お前が一番しつけのいい坊ちゃんなんだぞ。末恐ろしいな」
ダンダはそう言いながら懐中電灯を咥えると、受け取ったガムテープをクレセント錠周囲のガラスに貼っていく。
チャメは気にせず、再びポーチを漁って今度は小振りのハンマーを出してきた。
開いた口が塞がらないというような顔でダンダはガムテープと交代にハンマーを受け取り、テープで囲んだガラスを叩いた。
「こいつらマジで怖いんですけど」
滑らかに作業する二人をエイジの隣で見つめながらババクンがつぶやいた。
静かな庭にガラスの割れる音がした。だが、テープのおかげで隣近所に聞き咎められるほどではなかった。
ダンダは尖ったガラスに注意しながら穴に手を突っ込み、クレセント錠を解いた。サッシをゆっくり開ける。きいぃと軋む音がしたが気になるほどではない。
淀んだ空気がふわりと流れ、かびと埃と何か得体のしれないにおいがしていたが、興奮している四人は気にも留めなかった。
***
妻がなぜ庭に夫の死体を放り出したのか。
それは夫の人生において唯一自慢のマイホームから永遠に追放するという、殺してもなお満足できない夫に対する嫌がらせだった。
だが、小柄とはいえ大の男を引き摺り出した妻の肥満体が悲鳴を上げていた。烈しい怒りと殺人行為、さらに死体を無理に引き摺ったことへの体の負担が起爆剤となって、高血圧症の妻が急性心筋梗塞を発症したのだ。
しかも部屋に戻りサッシの錠をかけ、ガラス越しに惨めな夫の姿を見ながらほくそ笑んだ直後のことだった。
妻は胸を押さえ苦しみ悶えて倒れ込んだ。
子供もいない。親類もいない。新聞の購読もしていない。近所づきあいもない。
誰ひとり姿の見えない夫婦を気にかける者はなく、訪ねてくる者もいなかった。
よって、いつまでたってもこの家で起こったことは誰にも気付かれなかった。
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「お前さ、手慣れてない?」
エイジは躊躇せずに作業を行う友人が知らない人間のような気がして少しだけ怖く感じた。
ダンダは咥えていた懐中電灯を手に持つとエイジを横目に「俺もテレビで見たんだよ」と、靴を履いたままさっさと家に上がり込んだ。
ババクンとチャメが後に続く。
エイジも戸惑いを振り払い、家の中に入った。
何か起こった場合に備えすぐ逃げられるよう、掃き出し窓は開けたままにしておいた。
街灯のおかげで仄明るい部屋はリビングだとわかった。安っぽいソファセットやキャビネット、テレビがある。
「家具、置きっぱなし――」
何もない空き家だと思っていたのでエイジは驚いた。
ダンダは黙って、懐中電灯を照らしながらあちこち物色している。やっぱり手馴れてるよとエイジは思ったが、もう気にしないことにした。
ソファの前には大きめのテレビ台が据えられていたが載っているテレビは十四インチの小さなもので、チャメが笑った。
「この大きさだったらここから見えにくいね」
チャメの家にあるのは超大型テレビだ。映画を観るのもゲームするのもド迫力だった。
「ふん。おまえは大きいのに慣れ過ぎてんだよ。こんな狭い部屋ならちょうどいいのさ」
ふんとダンダが鼻を鳴らす。
ババクンがテレビ台の上を指でなぞった。ごっそりと埃が指先に溜まり、慌ててズボンで拭う。
それを見たエイジはソファの上にも埃がたっぷり積もっていると考え「今度、なんか敷くもの持ってこなきゃな。直接座るの気持ち悪いし」と誰にともなくつぶやいた。
「あっ、僕持ってくる」
チャメが手を上げる。
「じゃ、お前、全アイテム担当な」
ダンダは笑いながらチャメの顔に光を当てた。
「もう、まぶしいよ」
チャメが光の輪から顔を背ける。
「なあ、これなんだろ」
ババクンの声にみなが振り向いた。
ババクンはキャビネットの天板をじっと見つめている。
ダンダが懐中電灯を向けて近づいた。
「なに、なに」
チャメも好奇心旺盛に近寄る。
エイジはダンダとチャメの間からババクンとキャビネットを交互に見た。
***
真冬という季節も災いした。
その年の冬は例年にない厳しい寒さで何度となく雪が降り、積雪記録を更新した。
庭にある死体の腐敗は冷蔵庫保存しているかのように抑えられていた。
一方、家の中では付けっぱなしのエアコン暖房によって妻の腐敗が進んだ。
腐敗臭が外に漏れていたかどうか不明だが、隣人たちが感じていたのは夫婦宅の横を流れるドブ川の臭いだけだった。
ようやく別の異臭に気付いたのは暖かい日が続いた翌日。
不審に思った隣人が近隣の住人たちとともに訪れ、夫婦の死体を発見する。
町内は大騒ぎになった。
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天板全体に積もった埃の上を手形が無数に付いていた。
「手の跡じゃねえか」
ダンダがそう言いながら、つまらなさそうにそっぽを向いた。
「うん。それはわかるんだけど、なんで付いてんのかなと思ってさ」
本当に奇妙だと感じているババクンの口ぶりだった。
「そりゃ、管理人とか、不動産屋とか、いろいろ出入りするからだろ」
ダンダはその場から離れ、再びあちこち物色をし始めた。
「そうだよ。これがネズミの足跡とか蛇の這った後だったら、ちょっと怖いけどね」
チャメがふふふと笑う。
「キモイこというなよ」
エイジはチャメを肘で突いた。
「ここに入った時、長い間人が入ってないんだなって空気感じなかったか?
だけど、この指の跡、きれいなんだよね。その上に埃も積もってないし」
ババクンは目線を上げたり下げたりして、手形を何度も確かめていた。
「あっ、ほんとだ」
「もう、キモイこと言うなって。怖いだろ」
「やっぱ、エイジは怖がり屋さんだ」
「ち、違うよっ」
チャメとエイジが小突き合いしているとダンダがライトを当ててきた。
「お前ら、いつまでごちゃごちゃやってんだ」
「ダンダはどう思う?」
エイジは天板を顎でしゃくる。
「ふん。ふたりともババクンに騙されてんだよ」
「ちょっ、おれ、ここ全然触ってないよ」
ババクンが慌てて否定したが、ダンダはにやりと笑顔を浮かべるばかりで、エイジもチャメも白けた目をババクンに向けた。
「ほんとだって。信じてよ。そんないたずらなんてしない――ぷっ」
ババクンが吹き出し「ったく、ダンダは騙せないよ。この二人なら完璧だったのにさ」
「ひっどお」
チャメが頬を膨らませた。
すでに物色を再開していたダンダが声を上げた。
「おいっ、これ見ろ」
ライトがソファ横のカーペットを照らしている。映っているのは人型のどす黒い染みだった。乾いて褪せてはいたが気味の悪さは十分だった。
「うわぁ、キモ」
チャメがエイジの後ろに隠れるように身を引いた。
「ここが幽霊屋敷っだってーのわかった気がするな。まあ、これもいたずらかもしんねえけど」
ダンダがしゃがみ込んで、興味深げに染みをじっと見ている。
「なあ、なんか腐ってるような臭いがしないか?」
エイジが微かに漂っていたカビや埃以外のにおいにやっと気付いた。
***
男は自分の身に何が起こったのかまったくわからなかった。
気付いたら庭に裸足で立っていた。
中に入ろうとしたが吐き出し窓に鍵が掛かって締め出されていた。
解錠してもらおうとガラス越しに妻を探したが目の届くところにいない。
玄関のほうへ回ろうとしてが、どういうわけか庭から離れることができなかった。
「おーい」
ガラス越しに妻を呼んでみる。窓の向こうに動きはない。
「おーい。開けてくれ」
「おーい」
男は何度も呼びながら、どんどんと窓ガラスを打つ。
だが、いくら待っても妻は来ない。
男は呼び続けた。ずっと。ずっと。
いつまでも男は家に入れない――
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