家康と秀忠の確執

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「本当によいのか?」  秀頼は寂しそうな顔をして言った。 「ええ。ここ数年、楽しい時を過ごさせていただき申した」 「そうかあ。それでこれからどうするのだ?」 「そうですなあ。信濃の山奥に戻り写経でもしますかな」 「写経? 柄でもないな」 「はははっ。確かに。まあ、時は腐るほどあります。ゆっくりと過ごしますわい」  真田昌幸が隠居を願い出たのだ。凡そ十年、秀頼の軍師を務めてきた。此度の大阪城包囲戦では、将の布陣から色々な策立てまでを一身に担い、城を守り通した。充実感を感じることができたが、そろそろ後進に道を譲る時かもしれぬと隠居を決めたのである。  近畿の大名や将たちは、昌幸の才を惜しみ、引き留めた。年の変わらぬ慶次郎や長い付き合いとなった前田利長も大野修理、横浜茂勝までもが説得するも昌幸の決意は固かった。  最後にはみなが説得をあきらめたのである。  昌幸は信濃へ戻り小県郡の真田村に移る。隠居料として年五千石が秀頼より与えられる。  昌幸の後任の軍師を任じられたのは、慶次郎や利長、伏見で共に過ごした長宗我部盛親らが推した幸村だった。幸村は恐れ多いと断るも、昌幸に強く説かれて引き受ける。幸村は伏見と大阪を行ったり来たりで大忙しである。 「さて、上様。皆様には諸国に帰っていただき力を蓄えていただきましょう」  軍師となった幸村は大阪城の包囲が解けたことを受けて、城に詰めていた諸大名たちを本領に返すべきだと言う。昌幸に比べて、幸村はずいずいと自分の意見を述べる。その姿は新鮮であり、大阪城にあらたな風が吹き込んだようであった。  幸村の進言を取り入れて、大阪城には前田利長、前田慶次郎、福島正則以外は国許へ帰っていった。この時、大阪城が擁する兵は四万弱となった。 ……江戸城……  大阪から戻ってから家康と秀忠は互いに繋ぎを取ろうともしない。家康は独断で大阪から撤退した秀忠に怒っていたし、秀忠は将軍としての意地があった。  家康と秀忠が不仲となったが、江戸と駿府の状況は本田正信・正純父子が連絡を取り合っていた。正信は秀忠の近侍として目を光らせ、正純は家康の傍にいて家康の意を汲み取っていた。両名とも気苦労が絶えない昨今だ。
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