家康と秀忠の確執

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 ある時、地方の小大名が秀忠に居城の改築普請を願い出た。秀忠は許可を与え、その大名は普請を進める。  ところがそれを聞いた家康は「かの地では普請など必要ないわ!儂に断りもなく普請など許さぬ!」と大名を呼びつけ叱責したのだ。大名は家康の怒り様に恐れおののき普請を途中で止めた。  その件があってから秀忠は一層意地になり、秀忠独断で諸大名に命を出すことが多くなる。 ーー父上の名は大きい。「東海一の弓取り」の父に忠誠を誓っておる者がなんと多いことか。これは儂独自の臣を増やさねばならぬーー  そう決意した秀忠は正信ではなく土居利勝を呼び寄せた。 「利勝。蒲生秀行がどうしておるか知っておるか?」  蒲生秀行は大阪城包囲戦の少し前に、お家騒動を理由に家康に改易されていた。お家騒動は実際は家康が蒲生家に手を突っ込み誘発したのである。秀行は秀頼の関白叙任馬揃えにも参列していた。譜代強化するために二心があるやも知れぬ秀行を改易して、所領を譜代の者に振り分けたのである。それは秀忠も知っていることだった。 「はっ。確か会津で茶道をしておるとか聞いております」 「ほう。茶の湯で生計を立てよるか。  利勝。秀行を探して連れてまいれ。よいか、正信などには知られぬように連れてくるのだ」 「はっ。御意に」  秀忠は齢三十という秀行の若さが気に入っている。若さゆえに老臣に翻弄された秀行に、正信ら家康からのお目付け役を抱える己を重ねて見ていたのだ。  蒲生秀行は秀忠に旗本として召し抱えられた。そして利勝と秀行は、秀行同様に改易されている早川長政、遠藤胤直、宮部長房を探し出した。秀忠はそれらをも召し抱える。  本多正信は家康に秀行達のことを知らせる際は、自ら駿府に赴いた。秀忠が探し出した上で召し抱えたと言えば家康は認めず、徳川家中はさらに混乱する。  正信は秀行らが食うに困り秀忠を頼って懇願し召し抱えたことにする。それでも家康は納得しなかったが、正信はこう述べた。 「では大御所様は秀忠様とこのままの関係で良いと言われるのですか?  大御所様がお決めになった将軍ですぞ。確かに秀忠様は至らぬところばかりですが、大きな目で、長い目でご覧じるべきです。  しばし、秀忠様のなさることを黙って見ていようではありませぬか。突拍子もないことは儂がさせませぬ」  そう言われて家康は渋々頷く。
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