家康と秀忠の確執

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 秀忠の周りには新たに召し抱えた者が増えた。日々、秀忠とその者たちは談合を重ねる。将軍としていかに豊臣家と対するかを話している。  徳川家の軍師というか策を練る者に、名の知れた南光坊天海がいるが、天海は家康の側近として駿府にいる。徳川家には、もう一人の軍師格に金地院崇伝がいて、こちらは江戸にいる。崇伝は古くから家康に仕えて色々な助言を与えてきたが、天海が現れてからというもの、崇伝の進言は取り入られることが少なくなった。崇伝は家康から距離を置き秀忠の江戸に出仕するようになったのである。  その崇伝はもっぱら江戸の町割りや治水普請に精力を傾けている。  秀忠が信を置く利勝と秀行との談合が多い。 「それではやはり上杉か?」 「はい。西では豊臣も纏まり易くなり、大きな戦果は見込めないでしょう。東はそうではありませぬ。その中でも上杉家は豊臣方の北の端」 「秀行。しかし、伊達や最上に寄せさせているが、中々固いぞ」 「ご両者共に本気ではないようです。外様の者だけではよろしくない」 「なぜだ?」 「戦で負担を強いられるのが外様だけとなるからです。負ければ兵を失いましょう。勝てても、所領が得られるかは分かりませぬ」  仮に上杉領を奪ったとして、米沢三十万石を全て伊達政宗にはやるまい。最上にしてもしかり。一時的な治世は認められようが。 「秀行殿。上様は伊達や最上に上杉領切り取り次第と申しておりますぞ」  利勝は将軍がお墨付きを与えているではないかというのだ。 「絵に描いた餅。関ヶ原の時はどうでござったか? 多くの者が恩賞に釣られて、お味方になり申した。結果、加増となったものの配置換えさせられたり、思うたより少ない恩賞でござった。これは事実です。となれば真剣に取り組む利が薄い」  痛いところを突かれて秀忠も利勝も「うーん」と顔をしかめて唸る。 「では、どうすればよい? 奴らに本腰を入れさせる手立てはないか?」  その問いに秀行は一拍置いて、「一つ策はあります」と答えた。 「伊達、最上の他に直臣の者にも米沢に攻め込ませるのです。その者が功を上げれば、成果を上げられぬ両者は焦るでしょう。おぬしらは何をしておったと責めてもよいですな」 「責めれば叛旗を翻さぬか?」 「現状ではありえませぬな。西とは違い回りはお味方ばかりです。それこそ彼らにとって四面楚歌となります」
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