家康と秀忠の確執

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ーーこやつ、頭が切れる。儂には必要な者となりそうだーー  秀忠は話を聞きながら、秀行を拾ったことは間違いではなかったと感じていた。そして秀行の意見を取り入れて、具体的な策を練っていく。  伊達政宗には米沢東部を、最上義光には米沢北部を米沢を奪った後は与える旨の約定を書状にしたためた。あらかじめ恩賞を具体的に提示すれば、それも書面でもって約しておけば納得させられるであろう。  秀行の言う上杉攻めの直臣として土居利勝が是非にと願い出た。  だが、秀忠は家康の手前、新参の旗本に功を上げさせる必要もあった。己の目に狂いはないところを見せたかった。そこで宮部長房に白羽の矢を立てる。長房は召し抱えてから「早く功を上げて恩返しをせねば」と口にしていたからだ。  春になり雪が溶けるのを待って、一六一三年四月。  秀忠は下野国・宇都宮十万石の奥平家昌の所に宮部長房に五千兵を預け送った。この時、奥平家昌は病に伏せっており、奥平家は宮部長房に実質差配させることにしたのだ。更に下野・那須三万七千石の成田長忠や同じく那須で二万石を拝する大関晴増に、長房の指揮下に入ることを命じた。  この時はさすがに家康に上杉攻めのことは知らせた。後でぐちぐち難癖をつけられるのを嫌ったのだ。家康も正信や正純に諭されるまでもなく「思うとおりにやってみよ。上手くゆかぬとて、後で儂が何とかする」と秀忠の動きを認める。 なんだかんだ言っても、やはり父子なのだ。  宮部長房は寄騎となった成田長忠には成田・大関両家の兵を合わせた千名を率い、宇都宮城に参陣させ、大関晴増には宇都宮の留守居を命じる。そして、成田長忠を先鋒とした軍勢八千を率いて、陸奥・磐城に向けて出陣する。  家康の胸中は早期に豊臣家を潰すために西を向いている。かたや、秀忠は少しづつ体制を整えてから対峙すべきと思考する。  家康と秀忠の確執により、上杉攻めが激しくなるのであった。
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