米沢の戦

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米沢の戦

 宮部長房が陸奥磐城に向かったのは、その地を治める鳥居忠政に秀忠が兵糧支援や軍役を命じたからである。ところが鳥居忠政は色々と動けぬ言い訳をして軍役に応じず、形ばかりの兵糧を長房に与えただけであった。  鳥居忠政は親家康派であり、家康の顔色を伺い秀忠には非協力的な姿勢を見せたのである。後に秀忠から叱責を受けても、本多正信や家康に取り繕ってもらう算段だ。特に忠政と正信は仲が良いのであった。 「おのれ、忠政。この戦で勝ち、きっと咎めを受けさせてやる」  結局、当てが外れた長房は自ら兵糧をかき集めて、米沢に向かった。  一方、伊達政宗は最上義光と頻繁に繋ぎを取っていた。昨年末には米沢北部を伊達領とする旨の秀忠の書状は届いている。最上義光にも同じころに書状が届く。 「ふんっ。書状で約せば信用すると思うてか。こんな書状などいくらでも反故にされるわ」  これが家康からの書状であれば、政宗の受け取り方も違っていただろう。  政宗にしろ最上義光にしろ、徳川秀忠を軽視している。武将の格で言えば心中では秀忠など相手にしていないと言ってもよい。ここ数年家康に上杉討伐を命じられ続けていたが、形ばかりの進軍でお茶を濁していた。前述のとおり利が薄いからだ。  だが、政宗は「今回は本気で攻めようではないか」と義光と話している。 ……大御所様と将軍様の間に齟齬がある昨今、我らの力を見せる機会と存じる。所領は徳川家のことであるゆえ、書状があるとて先は見えませぬ。  されど将軍が我らとの約定を守らぬ時は、大御所に裁可を促せよう。また、大御所が難癖を付けし時は将軍が我らを擁護するであろう。  どちらにせよ、徳川本家が割れている今が、我らが力をつける時に相違ないと思考する次第也……  義光も政宗に説得される形で同意した。    かくして伊達政宗、最上義光は宮部長房と時を同じくして、米沢へ向け出兵した。
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