米沢の戦

5/10
前へ
/598ページ
次へ
 すぐさま、成田氏宗は那須に向かう。  氏宗の話を聞いた大関晴増も豊臣に参陣することを決め、宇都宮城を退き、本国へ帰る。氏宗と相談した結果、両家の妻子は少し離れた寺に預けられ、両家は成田家本城の烏山城に入城し守ることにしたのである。晴増の本城・黒羽城は守兵を置くことなく据え置かれた。これは両城合わせても留守居兵は僅かに七百あまりで、分散するより纏まった方が良いと判断したのであった。  秀頼は成田長忠、大関晴増が豊臣家に与することを認めた。しかし、両家の本領は徳川勢力圏内で、立ち行かないと判断し、当面の間、両者は仙石秀久の寄騎とし本領は後々宛てがうことにし、烏山城、黒羽城は空城となった。  晴増は妻子を隠す寺に兵を置き、単身、米沢の仙石勢に加わった。  宮部長房と仙石勢の戦がはじまったころ、直江兼続の籠る館山城へ最上勢が攻め寄せていた。  最上義光は飯塚館にいた五千兵を率いて館山城へ迫った。小其塚館に残りの五千兵を留めたのは、米沢城から景勝が兵を出し館山城との間に挟まれる事を恐れたためだ。それでも兵数で言えば義光の兵が勝っている。  兼続はすぐに城を出て立ち向かう。  兵を五百づつの六つの隊に分け、それを二隊づつ三列に配している。兼続の本陣は一番後方の一隊である。兼続の兵達は整然としており、精強ぶりが伺える。 兼続は布陣を眺めて、静かに戦意が高まっていくのを肌で感じていた。  兼続の兵達の内、前方と中陣の四隊は変わった鎧を身に着けていた。それは故・秀吉の命で前田利長がこしらえた新式の鎧だ。南蛮風で鉄砲の弾を通さないもので、先日、秀頼から二千の鎧が送られてきていた。  直江隊と最上隊の戦は激しいものであった。突っ込んでくる最上隊に対して、数の劣る直江隊は臆することなく対峙し、上杉家のお家芸『車懸りの陣』で迎えうった。 「第一隊は右に回れ! すぐさま第二隊は槍をつけよ!」  直江隊は被害を出しながらも最上隊を削っていく。次から次へと新手が表れては去り、また新手が勢いよく突っ込んできて、最上隊は崩れていた。  結局、最上隊は『車懸りの陣』に対抗することができずに、壊滅寸前にまで追い込まれた。 「よしっ! この戦、勝てるぞ!」  兼続が叫んだ。 『ターンッ!』  乾いた銃声を聞いた後、兼続は意識を失った。
/598ページ

最初のコメントを投稿しよう!

3305人が本棚に入れています
本棚に追加