米沢の戦

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「慶次郎殿、昌幸殿、これはよくおいで下された」  直江兼続は二人の来訪を喜び、一気に顔色が良くなったようである。 「兼続殿。早くご回復され酒でも飲みましょうぞ」 「ほんに、この地の酒は美味いと聞いておりますぞ。儂も飲みたいのぅ。慶次郎殿、兼続殿の代わりに手前どもが飲みまするか?」 「それはいいですな。では早速!」  そう言って立ち上がろうとする二人に兼続は慌てた。 「ああ、お二人とも、なんて意地悪な。待って下され。すぐに良くなりますから!」  兼続はしかめっ面で訴える。 「はははっ、仕方ない。兼続殿が良くなるのを待ちますか!?」  兼続の居室は三人の笑い声に包まれた。  真田昌幸はしばらく米沢に留まる事にし、兼続が回復するまで上杉景勝の軍師を務めることになった。  前田慶次郎は、前田利政が来たのと交代に米沢を後にし、一旦、本領である越後頸木に帰る。  前田利政、仙石秀久ら援軍は最上の撤退を受け、伊達政宗に対することになったのである。利政、秀久も兼続の回復まで米沢領に留まることにした。  伊達政宗にとって、米沢は元の本領であり思い入れがあった。孤軍となったのであるが、陸奥との国堺あたりまで兵を引きながらも、米沢領に橋頭保を維持していた。  上杉景勝は米沢領である陸奥・福島城に近い徳川頼房領の二本松城を攻め落とす。二本松は元は蒲生秀行の領土であった。秀行改易後に譜代強化策の一環として頼房に与えれている。石高は五万石とされていたが、これは秀行の重い課税によるもので、実際は二万三千石程度だ。  景勝は二本松で減税や開墾を促し、農民を手厚く保護する政策を施した。いずれ今よりはずっと豊かな地になってゆくであろう。  徳川勢による米沢進行は兼続が重傷を負ったが、豊臣方援軍により事なきを得た形となった。
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