高虎退治(一)

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 織田家は今では単独でも、藤堂高虎を相手にするには十分な力量を持ち合わせている。仮に戦となっても、援軍を頼まなくてもよいだけの力がある。  では、なぜにわざわざ秀頼の元を訪れたのか。実は秀則は兄・秀信にこう言われていたのだ。 「秀則よ。秀則と関白様はお互いを信頼しておる。それゆえ織田家は羽を伸ばして、行く道を行ける。  しかしな、どこぞで小さな齟齬が出ぬとも限らぬのが世の中じゃ。一度、改めて関白様とお会いしてきた方が良いと思うぞ。  そこでは必要ないかもしれぬが合力なんぞを頼むのじゃよ。人に頼りにされて悪い気がする者はおらんからな」 「なるほど。さすがに兄上でございますなあ」 「ふふふ、儂をおだてても何も出んぞ。かっかっか。織田家は祖父・信長公のころから、そのような事が苦手な血筋じゃった。  したが、今後の事を考えるには、その辺りも上手くこなしてっゆかねばならぬ。それはお前ならできるわ。儂や有楽斉伯父では無理だがの」  このような織田兄弟のやり取りがあり、秀則は秀頼に面会した。秀則はそれに加えて松平康重を大阪城に出仕させることを決めた。秀頼との結びつきをより強くするためである。家臣を大阪城へ出仕させることにより、「織田家は豊臣家に忠誠を誓っている」と示せるわけだ。  この頃、織田家では宿老筆頭に任じた斉藤徳元を織田家内大名とした。領土は播磨高砂城一帯三万石である。  大名とは領内の仕置の全てを任せることである。織田家の序列に関することや、織田家の方針に背かない限りは、すべて意のままということだ。家臣を雇い入れるのも秀則の裁可を得る必要もない。もちろん斉藤徳元の織田家内の序列は変わらず、宿老筆頭である。  この時、斉藤徳元には曾祖父である斉藤道三の旗印の一つであった撫子を使用することを認められた。些細なことであるが、織田家の地力を少しづつ高めてゆくのである。 ……大阪城……  秀則が丹波に帰り、秀頼はいつものように幸村と各地の情報を整理する。 「上様、我が豊臣家は狙い通りにじわじわと版図を広げておりますな。更に朗報といえば徳川では家康殿と秀忠殿の不仲が聞こえてきております」 「うむ、その両者の不仲がどの程度なのかのぅ。したが、我が方としてはそれに付け入る機ではあるな。まず各地の事を見据えて策を練らねばならぬ」  秀頼は日の本の地図を小姓に持ってこさせて広げた。
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