活発な地方の戦い

2/5
3301人が本棚に入れています
本棚に追加
/598ページ
 一六〇四年十月に豊臣方が伏見城を奪取し、十一月に家康は『豊臣討伐令』を出した。その時には誓紙を出さずに豊臣家に従う姿勢を示した島津家久、加藤清正、福祉正則らの大名を討伐するように各地の徳川方大名に命じている。それ以前に豊臣方に従っている上杉家、前田家にも当然のように討伐令は出ている。 ◆九州地方◆  真っ先に豊臣討伐令に反応したのは黒田長政であった。  黒田長政は父・如水(官兵衛)譲りの調略が上手く、先の大戦では多くの豊臣恩顧の大名を徳川方に引き入れた。  加藤清正を説得したのも長政であった。  長政は福岡で五十二万石を擁するにまで加増され、九州の勢力としては島津、加藤と肩を並べるまでに成長した大名である。  黒田家は如水が秀吉にその才を警戒され、九州豊前に十八万石と働きに比べて小身に置かれたことが面白くなかった。それゆえに領土の拡大に対して強い思い入れがあったのである。領土は切り取り次第という古い考えの持ち主であった。 「よし!恩賞は想いのままぞ!向かうは加藤清正!」  長政は有馬晴信、細川忠興、田中吉正らを糾合し寄り騎とし、肥後の加藤清正に向けて出陣した。長政は佐賀の鍋島直茂にも合力を打診したが、直茂は平戸の松浦家に不穏な動きがあるとして断っていた。  実際のところは鍋島直茂は長政を信用しておらず、日和見に徹したのであった。 「長政めが来るか。小癪な!」  対する加藤清正は肥後・人吉の相良長毎を電光石火で攻めて滅ぼし、日向の高橋元種、秋月種長に圧力を持って降らせた。清正は高橋元種、秋月種長らの親族を質として捕え、黒田に対する防御の前線に配置した。  とはいえ高橋・秋月両者の兵は合わせて二千名ほどである。  この時に功を上げたのは宇喜多秀家であった。  宇喜多秀家は家康に改易され、清正の所に身を潜めていた。清正は客将扱いで 世話をしていたのだった。  その秀家が相良長毎を討ち取る功をあげたのだ。 「一心。その方は薩摩へ向かい家久殿に書状を届けよ」  清正は庄林一心に書状を持たせ島津家久の所へ向かわせた。肥後と薩摩の間には徳川方小大名が多く居る。清正は長政と対峙するために背後の徳川勢力の排除を頼んだのである。 「心得た。清正殿に御安心めされと告げてくれ」  島津家久は清正の依頼を快諾し動く。
/598ページ

最初のコメントを投稿しよう!