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署の出入口で立ち止まった松樹は、署内からの明かりを頼りにリュックの中を探し、名刺を取り出して三國に手渡した。
フードジャーナリストという肩書と名前、メールアドレスに電話番号というシンプルなその内容を確認して、三國が首を傾げる。「住所は?」
「ないわ」松樹がしれっと答える。
「ああ、なるほど。個人だから事務所がないんだな。それじゃ自宅の住所を控えさせてもらおう。一応、聞くルールなんでね」
「だから、ないの」
松樹がそうきっぱりと答えた。さらに三國が首を傾げる。
「どういうことだ?」
「どういうことも何も、今全部言ったわよ。私は家がないの。東京だけじゃなくて全国に取材で飛び回ってるでしょ? 部屋を借りたってお金の無駄だから、ないの。だから……住所不定ってヤツよ」
ごく普通にそう言い切る松樹の顔には、少しの恥じらいも浮かんではいなかった。
だからこそこの大きなキャリーバッグを持ち歩いているのだろう。そういう、常識から少し――いや、かなり外れた考え方ができなければ、ジャーナリストという仕事は務まらないのかも知れない。
「あ、でも勘違いしないで。形だけの住所は登録してあるから住民票もあるし、税金もきちんと払ってるわよ。何度か滞納したけどね。じゃないと保険も使えないし。問題ある?」
「いや、問題ないけどよ……」
ならいいでしょ、そう言いたげに松樹が大きなあくびをした。目にうっすらと溜まった涙を指先で拭って、ため息をつく。
「……お疲れのようで」
「私は夜九時前には寝るようにしてるのよ。三食おいしいものを食べて、きちんと運動をして早く寝る。そういう生活が偏見をなくすの」
「はあ。……もう大丈夫なんで……協力ありがとうございました」
「それじゃ」
呆然とする二人を尻目に、松樹は大きなキャリーバッグを引いてガラガラというキャスターの音を立てながら夜の街へと消えていった。
二人は無言のまま署の中へと戻り、二階の刑事課へと階段を昇っていく。
「何だか……すごい方でしたね」
杉元の感想に三國も頷く。
「ああ。なんつーか……なかなか見ないタイプだな」
胃の中の残留物で店を言い当てて、自分を偏見の塊だと罵った住所不定の自称ジャーナリスト。
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