85人が本棚に入れています
本棚に追加
プロローグ
小春日和と言ってもいい二月の水曜日、その夕方。
日暮里駅から尾久橋通りを挟んだ先にある、小さな雑居ビルに囲まれた一角に、その菓子屋はひっそりと佇んでいた。
三階建てのビルは一階部分が全てガラス張りになっており、左側のスペースでは二人がけのテーブルが並んでいて、軽食がとれるようになっている。壁を挟んだ右側にはレジの置かれたカウンターがあり、その下には冷蔵ショーケースに収められた様々な菓子が陳列されていた。
「ああ、これが新作の……」
杉元新一は、ダークスーツを着た百八十センチ近い体をくの字に折り曲げて、ショーケースの中で鎮座しているいちご大福をじっと見つめている。
中分けにした髪に黒縁のメガネをかけ、糸目をさらに細めているその姿は、知的さよりも、どことなくマニアックさを醸し出していた。
「あの……お客様?」
二十代も半ばに差しかかった男が十分もいちご大福を凝視しているという尋常ではない状況を受けて、カウンターの中にいる若い女性店員は困ったように眉を下げながら、杉元の様子を伺っている。
まだ高校生ぐらいだろう。ピンクのエプロンを着け、長い黒髪と細いフレームの眼鏡は、杉元と違って明るく知的な雰囲気を醸し出していた。
「お客様。うちの商品に何か問題でもありましたでしょうか? いちご大福に」
通算で五度目となる店員の問いかけを受けて、はたと気づいた杉元が顔を上げた。
「あ、いえ……その。すいません。つい見とれてしまいまして。……いや」
杉元は顔が火照っているのを気付かれないよう、空咳をして気持ちを整えようと務めた。だが、当の女性店員にはバレているらしく、その目からは疑いが払拭できていないようだった。
「お嬢さん、大丈夫ですか?」
すると、厨房のほうから大男が現れた。
短い髪が乗っかった顔にはいくつもの傷跡があり、ボディビルディングをしているかのような筋肉を持っているが、コックコートを着ているということは製造のスタッフなのだろう。
「あ、一ノ瀬さん。すいません。大丈夫です」
「本当ですか」一ノ瀬と呼ばれたプロレスラーみたいな大男が、野太い声を出しながら杉元を見つめる。「……ならいいですが。何かあったら呼んでください」
まるで時代劇に出てくる茶屋の娘と、それに惚れた用心棒のようだ。誤解を与えてしまったのだろうと、杉元は深く頭を下げた。
最初のコメントを投稿しよう!