じいちゃんと僕

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両親が共働きだった僕はいわゆる「おじいちゃん子」だった。  教師だったじいちゃんは当然勉強を教えるのが得意で、特に書道に関しては厳しくされたのを覚えている。  冬休みの宿題の定番といえば書初めだが、友達がちょろっと書いて終わらせてしまうようなその宿題も、適当に書くことをじいちゃんは許さなかった。  実家が田舎の小さな村だったから、じいちゃんが教師だったことはけっこう有名だった。教師の孫が学校の宿題を適当にやって提出していることを周囲の人に知られたくないというプライドもあったのだと思う。  おかげで我が家にとって書初めの宿題は、冬休みの最後を締めくくる一大イベントみたいな扱いになっていた。適当にやれば一時間もかからない書初めが、書き直しに書き直しを重ねて、ときには丸二日もかかるのだ。 小学生の僕にとっては正直本当につまらない時間だった。  書初めは教室の壁に全員の作品が貼り出される。特に上手く書けている物には先生が金色の紙を貼ってくれるのだが、地元の書道教室に通う友達がこぞって金色の紙を貼られる中で、僕の作品も何度か金色の紙を貼ってもらったことがある。 じいちゃんにそれを持って帰ると「大したもんだ」と褒めてくれたのを覚えている。  自分の好きなことにはこだわりの強いじいちゃんだった。けれどじいちゃん以外の家族全員がA型で、どことなく神経質な家庭の中で、唯一O型のじいちゃんはいつも朗らかで、どこか僕の逃げ場みたいになってくれていた印象がある。  高校を出て上京してからは、じいちゃんと話しをする機会は少なくなったけれど、時折帰省したときなんかは居間のテーブルに座って近況を話したものだ。  僕は自分のことを率先して話す性格ではなかったから、話し好きでおしゃべりなじいちゃんとは相性がよかったのかもしれない。  段々と耳が遠くなって、同じ話しを何回も繰り返さなければならないときもあった。ずっと一緒に住んでいた両親はそのことにイライラを募らせることもあったみたいだけれど、僕は全然苦痛に感じなかった。
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