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聞き間違いなんかじゃない。
耳元で囁かれたのは、婚約者がいる身で言語道断な愛の告白。
甘くて危険な、罠への誘い。
「今のは、聞かなかったことにしろよ?」
お前の心の内に留めておいて、と。
「意味、わかって言ってるの?大抵の女の子は勘違いしちゃうんだから、」
「わかってるよ。だから、本当に思った時にしか言わない」
“あたしが勘違いしたら、どうするの?”
思わず、口をついて出そうになるのを抑えた。
「ま…ゆみさんよりも?」
「一番、って、そういういことだ」
細長い指をあたしの髪に絡め、力なく笑う。快方に向かっているとはいっても、まだいつもの元気はない。
「それ…眞由美さんに言っちゃ駄目だよ?」
「あたりめーだろ、馬鹿」
わずかに憂いを帯びた目が、全てを物語る。それを見て、あたしは悟ってしまう。
彼は、本当に結婚してしまうのだ。橘眞由美という社長令嬢と結婚して、ゆくゆくはうちの会社を背負って立つ人間になる。
あたしは、彼のために敷かれたそのレールの上に横着に居座る障害物のようなものだ。
“ただのご近所さん”という立場でありながら。
「ありがとな。今日、送ってくれて」
それでも期待してしまうのは、藤次郎が優しいから。
ただのご近所さんでも、幼なじみでも、妹でも部下でもない、何か特別な関係を思わせる称号を与えてくれるかもしれない。
そんな期待を抱かせる藤次郎が、時々恨めしい。
ああ、少し油断するとすぐに自分の立場を忘れる。
「藤次郎は大切なご近所さんだからさ。困った時には助けるのが当たり前」
そうやって、あたしから境界線を引くのだ。
でも、一体その線はどこに引かれているのだろう。絶対に超えてはいけない一線は、一体何なのだろう。
「由宇。今日、泊まっていけよ」
お互いの視線が絡まり合って、名付けようのない空気が漂う。
息が止まった。
「何言ってんの、帰るに決まってるでしょ」
ここで了承してはいけないと、警鐘が鳴る。これ以上、藤次郎がいて当たり前の環境に浸ってはいけない。
彼はいなくなる。いつか必ずやって来るその時に受け入れられるように、今から慣れておかなければいけない。
藤次郎が隣にいない日常に。
「どうせあたしの手の届かないところに行っちゃうんだから」
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