一章:予兆

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「――おや」 男は歩いていた足を止め、懐に手を忍ばせた。 鬱蒼と生い茂る緑の森。あちこちに陽の光が射してはいるが、どれも細く些か頼りない。時刻はまだ昼にも達していなかった。 男の細く長い指は懐から取り出したソレを、しっかりと捉えていた。暗い森の中にあってもなお白く見える手は女のようでもあるが、女よりもやはり大きく骨ばっている。 歳は二十代後半くらいだろうか。女のように端正な顔立ちをしていたが、髪の一本も見当たらないつるりとした頭だけが違和感を感じさせた。 左右で違う色の瞳が、取り出したソレ――半透明の球体を映し、「おやおや」と呟く。 空を映した水のように美しい色合いの球体は、ひんやりとして滑らかな触り心地であったが、男の指先に一つの違和感を覚えさせる。 「これは……困ったね」 言葉ほど困ったような表情をしていなかったが、それでもそれは男の本音であった。 美しい球体……その一部分にヒビが走っていた。 ほんのわずかな、小指の爪の先ほどしかないヒビであったが、男は大変なことであるかのように「うーん」と唸りながらヒビを見つめ続ける。 まるで、そのヒビのせいで世界が終わってしまうかのような。 「あぁ、のんびりはしていられなくなったな」 そして男は再び球体を懐に仕舞い込む。 ハイネックにジーンズ、ブーツという、手入れをされていない森の中を動き回るには少々不似合いな格好ではあるが、長い手足を器用に活かし、男はぐんぐん先へと進んでいく。 「みんな一所にいられるような性格ではないからね……一人は留まっていられるような状況でもないだろうし」 無意識なのかは分からないが、男はぶつぶつと呟き続ける。 「さて、誰を探すのが手っ取り早いのかな……」 なおも呟き続ける男の声音は、深い森の中へ溶けて消えた。
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