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古びたアパートのドアが、郵便受けを派手に鳴らして開いた。私は少し乱暴に靴を脱いで、整えることもせずに8畳ほどのリビングへと進む。申し訳程度についたキッチンから私の妻の声が聞こえた。彼女はいつも、その小さな厨房からは想像もつかないほど美味い料理を生み出す。
「おかえりなさい」
「ただいま」
ふとテーブルを見ると、この時間には並んでいるはずの晩餐が今日に限って見当たらなかった。代わりにしなびた花とランチョンマットが今日こそは主役になろうと意地になって自己主張している。
「晩飯はどうした。何かあったのか」
「昨日、友達にあって」
「知っている。高校時代からのだろう」
「その子に、教えてもらったお店、行ってきたの」
そう言って彼女はおもむろに私の前まで来て立ち止まった。その手にはつやつやと光った赤い野菜。
私はなんとも言えない苦笑いを浮かべた。
「トマトか」
「得意でないのは、知っているけれど」
少し意地の悪い、意味ありげな笑みを残して彼女はキッチンへと戻る。私は深くため息をついてリラックスチェアに座った。彼女がそういう顔をするときは、もう誰にも止めようがないことを私は随分前から知っていた。
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