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飲食店がひしめく地区から少しだけ離れ、それほど目立たないビルの階段を上がり二階にひとつだけある扉を押す。ここに来るのは週に一度だけと、須永千秋は潔癖なほどの律儀さで決めていた。
「おー千秋、仕事帰り?お疲れ」
「千秋ちゃん、いらっしゃい」
長身の美しい男とみっちり体を鍛えたバーのマスターが慣れた調子で迎えてくれる。国内ブランドのショップ店員として働いている千秋は週末が休みになることはほとんどない。その日も平日でカウンターに他の客はふたりしかいなかった。
一般的な隠れ家的ゲイバー『XYZ』有名なカクテルの名前である店名は略して『エクス』と呼ばれている。同性へ恋愛指向を持つ男が集まる小さなバーの顔ぶれは、通い慣れればほとんど覚えてしまった。パートナーを探しにくる男より、ただリラックスして酒を飲みたいという男が多い気さくなバーだ。一見の客もいなくはないが常連が多い。
失恋して雨の歩道橋でずぶ濡れになった日、すぐに千秋は恋をした。降り出した雨はあっという間に大きな雨粒になり、ふたりをぐっしょり濡らした。別れ難く、駅のスタンドでコーヒーをご馳走すると言ったのは千秋だ。
『また、会えない?』
千秋の問いに、男は無言で財布から小さな名刺サイズのカードを出した。その瞬間の落胆は大きく、思わぬ出会いにすでに期待を膨らませていた自分に気づいた。
あぁやっぱり、また男運の悪さを発揮してしまった。これも新手の営業で、今度は風俗かAVか。
『普通のバーだよ。俺、ここでアルバイトしてるから、よかったら飲みにおいで』
千秋の不安を読み取ったのか、男は親しみのこもった口調で言った。歩道橋の上から落とされそうになったことが嘘みたいに、ものすごく普通に『またね』と別れた。それから千秋は男目当てに足繁くバーに通っている。
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