01 恋に落ちる日

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 幾人もが行き交う交差点の歩道橋の上で、どれだけの時間ぼんやりとしていたのかわからない。小さな箱みたいなバスが人を詰め込んではどこかに行って、駅に人が吸い込まれていって、向こうに見えるビルの窓はキラキラしていて、すぐ後ろはひっきりなしに人が行き過ぎる。  幼い頃母が、瞬く夜景を見ながら、人が生きる光の数だけ幸せがあるのだと言った。自分の側を通り抜ける光の流れはあっという間に行き過ぎるから、大切なものは絶対に見逃しちゃいけない。零れ落ちる光を指の間から逃しちゃいけない。ぎゅっと千秋の小さな手を握って言われたからか、今でも光の向こうには幸せがあるような気がしてしまう。  さっきバスに乗り込んだサラリーマンは幸せな家庭に帰って行くんだろうか。空気は冷たくなり始めているのに短いスカートを履いている女の子の努力は報われるんだろうか。今後ろを通り過ぎたいちゃいちゃしているカップルは、これからセッ クスをするんだろうか。  ただ光の波を見ていても仕方ないと思うのだけれど、つい歩道橋の上からの景色に足を止めてしまう。大人になった自分は、光の向こうに幸せがあるなんて、夢物語だと知っているんだけれど。誰もが単純に幸せでない毎日を抱えて生きている。そして同時にささやかな幸せも抱えて。  また失恋をした。ゲイである千秋がつき合っていたのはもちろん男だ。  イベント関係の仕事をしていた男は、合鍵までくれた部屋で他の男と寝ていた。ベッドの下に落ちている靴下を見つけて、さらに奥を覗いて見つけたのはティッシュで適当に包まれた使用済みコンド ーム。雰囲気からしてふたりの性 交で使ったものではない。言い訳でもするのかと思えば『セッ クスってスポーツみたいなもんでしょ。汗かいて、気持ちよくて。別に誰とやってもよくない?』とあっさり言われた。  そのまま男のマンションを出て、電車の乗り換え途中の歩道橋で足を止めた。ひんやりとした秋風に首元がすうすうして、ストールを忘れてきたことに気づいた。  失恋なんて大したことじゃない。今までだってこんなこと、何度もあった。もっとひどいこともあった。今回は通帳も無事だし、殴られてもいない。大した被害じゃない。でも心が痛い。ずきずきと痛い。
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