01 恋に落ちる日

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 男から距離をとった瞬間、ぱらっと空から水滴が落ちてきて頬を濡らした。ぽたん、ぽたんとその数はどんどん増えて、足元のアスファルトを水玉模様にする。横を通り過ぎる人々の足が勢いを増して早くなる。  逃げなくてはと思うのに足は動かず、美しい男の顔に見惚れた。雨に濡れていても目の前の男はそれさえ舞台装置にして、汚されない透明感を全存在に滲ませていた。綺麗な唇の両端を上げて微笑む。  少し目を伏せただけで長い睫毛が際立つ。薄茶色の瞳は印象的で、その虹彩が千秋をまっすぐ写しているということに心拍数が上がっていく。モデルみたいにすらりと細く長身の体はすぐそこにあった。  事の成り行きも忘れてぼんやりと男を見ていたら、アッシュカラーの長めの髪を耳にかけ、いきなり距離を縮められた。人目も構わず抱きしめられ、ふたり一緒にぐらりと体が傾ぐ。手すりはそれほど低くなく、これくらいですぐに下に落ちることはない。 「やっぱ死ぬのやめるっ。離してっ」  細身の男は上背があり、力強い腕の中でもがいても、なんでもないみたいにぎゅっと千秋を抱いている。千秋がまだ周囲の目を気にしていて、それほど大袈裟に暴れていないせいでもある。ちらちらと通り過ぎていく人の視線を感じるが、雨が降っているせいか足を止める人はいない。 「やめっ…ほんとにっ」  本気で恐怖を感じたのは、抱き上げられそのまま覆いかぶさるように手すりに背を押し付けられた時だ。すでに千秋の背は弓なりにたわんでいる。  ぐっと抱きつかれたまま男の顔は近く、街灯に照らされ闇に浮かぶ顔に表情はない。冴え冴えと冷たく輝く瞳には迷いがない。下になった千秋の顔に男の濡れた髪がぱさりと落ちる。
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