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「今ここにはこの数メートルの廊下以外、何にもないわ。なくなったものは、元には戻らないもの」
「何だと……!」
この廊下以外何もない。事実ならとんでもない話だ。俺はそれを確かめるために一旦矢坂から離れ、ついさっきまでいたはずのトイレの方へと進んでいった。だが廊下は途中で途切れ、先はやはり暗黒になっている。踵を返して逆方向へと向かってみても、結果は同じだった。
「ちくしょう、何がどうなってやがる」
せめて残ったのが部屋、教室ならやりようもあったかもしれないが、廊下となると道具だとか備品だとかの類はない。状況が変わらなければ、飢えて死ぬか、狂って死ぬかのどちらかだ。
俺は元の位置へ帰ってくると、廊下に座り込んでしまった。気力が一気に失せたのだ。
矢坂は矢坂で、項垂れて小さくなる俺の方にすり寄ってきた。同じように廊下の床に腰を下ろし、他に誰もいない何もない空間で寄り添う俺たち。考えてみれば矢坂も同じ状況な訳で、一人きりでないことに救いを見出しているのかもしれない。
「ねえ」
どのくらい並んで座っていただろう。時間の感覚がなくなって行く中、矢坂が不意に口を開いた。
「キスしようか」
俺は絶句した。こんな状況で、こいつは何を言い出すのかと。
しかし残念ながら、男子高校生たる俺は少しだけ期待もしてしまうのだ。こんな状況であろうとも。矢坂は決して、可愛くないわけではない。
「よしてくれ。そんな気分じゃない」
俺はどうにか理性を働かせて、誘惑を振り切った。しかし矢坂は、そういうのとはまた別の、とんでもないことを言いだしたのだ。
「わたしはそういう気分だよ、八神クン。わたしは君と二人きりになりたいと願って、その通りになったんだし」
「俺と……二人きり?」
仮にそんなシーンを矢坂が願ったとして、それが叶っているのは確かだ。考えられる中でも割と最悪に近い状態で、だが。
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