第1章 新大陸へ向けて

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 夏のそよ風亭は、ケロイト地区にあるごく一般的な酒場の一つである。安くて不味い酒を大量に提供してくれるのがこの店の売りの一つであり、一日働けば三日は飲んでいられるとケロイト地区では評判があった。  エミリアは酒場に到着するや、即座にその扉をくぐった。そして思わず顔をしかめた。  さわやかな店の名前とは裏腹に、店内は薄汚れた空気が漂っていた。安い酒の臭いと、人間の汗と皮脂の臭いと、嘔吐物の臭いとが混ざりあったなんともいえない不快な臭いだ。他の貴族であったなら、この臭いを嗅いだ瞬間、即座に胃の内容物を逆流させていたに違いない。しかし、エミリアはその強靭な精神力によって吐き気を我慢し、臭いに耐え、中へと進んだ。  店の中には酒に酔った無数の男たちがいた。酒瓶を片手に椅子に寄りかかっていたり、あるいは床に横たわっていたり、もしくはテーブルに突っ伏していたりと様々であるが、誰一人としてまともな人間がいない。店主ですら、カウンターで酒に酔っている有様だ。  この異様なる光景に顔をしかめながら、エミリアは吐き捨てた。 「まるで掃き溜めね。クズ共のたまり場だわ。人間、夢と希望とお金と若さを失ったって、こうはならないわよ」  彼女の声は怒りに満ちている。酒場に漂う臭いは不快だし、人生を精一杯生きようとしない連中にも腹が立つが、一番の怒りの源は、自分と将来を誓った幼なじみが、このような場所で腐っているということだ。  エミリアは鋭く周囲を見渡し、店の奥でうつ伏せになっている一人の男に視線を定めた。薄汚れ、ボサボサになっているが、いまだ輝きを失っていない銀色の髪が彼女を導いた。  エミリアはその男に向かってツカツカと歩みを進めると、途中で中身が入った酒瓶を手にしながら近づき、問答無用で酒瓶の中身を男の頭上にぶちまけた。 「冷たッ、なにをする!」  男は仰天し、椅子から飛び上がった。そして自分に酒を浴びせかけた人物を睨み、硬直してしまった。 「エ、エミリア・・・・・・」 「どう? 目が冷めたかしら、キール」  言葉は絹のように柔らかだったが、声には目に見えぬ無数の針によって鋭く尖っていた。キールと呼ばれたエミリアの幼なじみは、あまりにも突然の出来事に次の言葉が口から続かず、怒りの勢いを失ってまた椅子に座りこんでしまった。  エミリアは肩をすくめ、ため息を吐いた。
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