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「私たち人間はどうしたって現在と未来を生きることしかできない。そんな中、君のように過去を、記憶を買いたいと言う人間は後を絶たない。私にはそれが分からない」
これから訪れる未来を得ることは理解できる。しかし過ぎた過去という時間を得ることには何も得がないと彼女は語る。
それもそうだ。
他人から見ればなんの得もない高額の買い物を僕はしようとしているんだ。理解されないなんて当然じゃないか。
そもそも理解なんてされたくない。
他人を理解しようだなんて傲慢にもほどがある。
他人を理解できないから考えて。
他人を理解できないから思いやって。
他人を理解できないから悩み苦しむんだから。
理解なんてしてしまえば、その関係はもう終わりきっていると言っていい。
「でも、君の後悔したいという感情は理解できなくもない」
後悔は人を成長させる。
その時の思い、願い、望み、叶わなかった時の悲しみ、苦しみ、辛さや痛みが、人をより強く、優しくする。
「正直いつもなら乗り気ではないのですが、今回ばかりは私もちょっとだけ協力させて貰うよ」
そう言うと彼女は古びたビルの前で立ち止まる。
「ここが私の事務所だ」
僕は案内されるままビルの階段をひたすら上る。
「本当ならさっきの喫茶店で済まそうとしていたんだが、あそこでは少し目立つからね」
ほら、ここ。
と立ち止まった扉には小さく『記憶屋』と書かれた表札が張ってあった。
「小汚いところだけれど、まぁゆっくりしていってくれ」
扉を開けると、雑然としながらもどこか懐かしい空気が充満する部屋があった。
どこを見ても本の山。壁は一面書架。見れば天井にまで吊り下げ式の本棚が備え付けられている。
「その本一つひとつが、人の記憶だ」
誰かがなくした記憶。誰かが棄てた記憶。
そんなものが、部屋の至る所で積み上げられほこりを被っている。
僕のなくした記憶も、こうしてどこかにあるのだろうか。
誰にも必要とされず、目の届かない場所でひっそりと息を潜めて僕が来るのを、待っているのだろうか。
ならば、迎えに行かなくては。
僕が無くした、恋と後悔の記憶を。
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