過去

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 そこは言うまでもなく、図書館だった。  懐かしい。  この空気、この雰囲気、この静寂、この温度までもが懐かしい。  僕は悟る。  ここはもう過去の記憶の中だと。  僕が学び育った校舎から少し離れた、ちょっと変わった形の図書館。 「あら、また来ていたんですか」  天窓を呆けた表情で見ていた僕に、その女性は話しかけてきた。  僕が後悔できなかった、恋の相手。 「今度は何を読んでいたんですか?」  束ねられた長い髪、知的な雰囲気を一層強めるメガネ、落ち着いた物腰と優しい声。  その女性は数冊の本を持ちながら、僕が広げていた小説を覗き見る。 「あら、これ昨日私が読んでいた本ですね」  柔らかい笑顔で、僕に言う。  そう、君が読んでいたから、僕は今この本を読んでいるのだ。  君を、理解したいと、この時の僕は思っていたから。 「この作家さんの本、すごく面白いですよね。それも面白いですが、私のお勧めは……」  女性は僕の隣に座り、自分のお勧めの本を紹介し始める。  いつだって君はそうやって僕に話しかけてくれる。  自分が好きな本を読んでいるからなのか。  はたまた、僕自体に興味を持ってくれているのか。  今でも、僕はその答えを知らない。 「ねぇ、聞いてますか?」  女性はほんの少しだけ怒った様な表情でこちらを見ていた。 「その顔はまた聞いてなかったでしょ。せっかく人がお勧めの本を紹介してあげてるのに」  もう教えてあげない。とそっぽを向かれてしまう。  こんなやり取りも、何度見ただろう。  その度に、僕はきっと…… 「……どうか、したんですか?」  浮かない顔をしていた僕を、女性は困ったような表情で見ていた。  ああ、なんでもない。なんでもないんだ。  ただ、自分の愚かさを実感していただけなんだ。  そう遠まわしに言うと、女性は、 「そうでしょうか。私はあなたを愚かだとは思いませんよ。ただ、分からないだけなんだと思います」  と、言った。  恐らく生まれてはじめてその感情を自覚したから、どうすればいいか分からないのだと。  はたしてそうだろうか。  これに似た感情を僕は何度も抱いたはずだ。  その度に僕は後悔し損ねてきた。
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