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「あたしのことはいいから、あなたはあなたの目的を遂げて下さい」
思い余って一緒に逃げようと告げた男に、女はきっぱりと首を横に振り断った。
役人の彼に与えられた使命は、携えた大きな呪杖と共にある。都の思惑の比重は明らかに葦原にあった。男は捨て駒とも言える水辺の人柱の成就を見届けてから、本命の湿地へと向かわなければならなかったのだ。
「早く行って」
彼女はもう既に、腰まで水中に浸かっていた。入水の途中で振り向いた女は、着物の胸元を強く握り締めていた。辺りに乳房ではない不自然な形の膨らみが窺える。相変わらず根拠もないのに、何もかもを諦めていない。意志を持った瞳で、彼女は彼に笑いかける。
さよなら、またねという音にならない声は聞こえずとも分かった。
白磁の女の唇を読み、弾かれたように役人の男は駆け出した。心を奪われた女のいる水辺ではなく、役人である彼が果たさなければならない本来の使命が待つ湿地へと。
始めから権力者が重要視しているのは、湿地帯の魑魅魍魎の駆逐である。ならば、彼の使命を果たしさえすれば、水辺の彼女を救ってはいけないという道理にないに決まっている。
一心不乱で、どうやって湿地まで辿り着いたのかわからない。気がつけば、眼前には葦原が広がっていた。
山に挟まれた谷は見渡す限りの群集に蹂躙されてしまっていた。湿地の人柱であった彫物の少女の姿はない。頼んだ助っ人も到着していないのか。場を埋め尽くす角のある蛇の異形どもに、無残にもう喰らわれてしまったのだろうか。
役人の男は呪杖で無我夢中になって魍魎を蹴散らして、湿地帯へと足を踏み入れると歩を進める。
場を創り、互いの境を示し、明確にしなければならない。
「衆を惑わし、我らに従わぬものたちよ、ここから去ね」
役人の男は声を上げて命令すると、手にした大きな呪杖を、地へと深々と突き立てた。
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