考える人

4/11
51人が本棚に入れています
本棚に追加
/11ページ
  いつもの出勤時間。 電車を降りて、徒歩で5分ほどの職場へ向かっていた。 唯一の交差点の、三角形の安全地帯。 車が流れる川の中に浮かぶ島みたいなこの場所に、普段見慣れない物があった。 そこにあるのは不自然だけど、なぜか妙に場に馴染んでいて、誰も気にする様子がない。 それは大きな黒い鞄で、見ようによっては「ちょっと置かせてね、すぐ取りに戻るからさ」みたいな雰囲気。 僕は鞄の横に立った。 見たところ、際立った装飾はない。 平凡な布製の、少し大きめなスポーツバックみたいだ。 顔を上げて辺りを見渡す。 誰もこっちを見ていない。 同じ進行方向で信号待ちしている車の運転手も、ルームミラーを見ながら鼻毛を抜いているだけ。 もう一度鞄を見下ろす。 これは、落とし物だろう。 こんなところに『ちょっと置いていく』ハズがない。 周辺にはお店もないし、電話ボックスもない。 と、安全地帯に自転車が入ってきた。 僕は咄嗟に顔を上げ、信号を見上げた。 素知らぬ顔で口笛でも吹こうかとバカな事を考えて、あれは漫画の世界だと頭を振る。 やがて信号が青になり、自転車は鞄に見向きもせず安全地帯から向こう岸へ渡って行った。 これは、落とし物だ。 しかも、誰も気づく様子がない。 取りに戻ってくる人の気配もない。 三度も信号を見送って待ったのだから、間違いない。 僕の心臓は暴走した。 鞄に手を伸ばした。 「なにするんだ泥棒!」 なんて声がかかったらどうしよう。 鞄を持ち上げた。 随分重たい。 いや、めちゃくちゃ重たい。 でも声は掛からない。 考える。 もし走ったりしたら、無駄に怪しまれるかもしれない。 背後から誰かが追いかけてきたらどうしよう。 いや、僕は何も悪いことをするわけじゃないから、堂々と歩いて交番へ向かえばいい。 自然と早足になるのを意識しながら、それでもなんとか、警察署に到着した。 そう、幸いにも職場のすぐそばに、この市の管轄の警察署があったのだ。
/11ページ

最初のコメントを投稿しよう!