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いつもの出勤時間。
電車を降りて、徒歩で5分ほどの職場へ向かっていた。
唯一の交差点の、三角形の安全地帯。
車が流れる川の中に浮かぶ島みたいなこの場所に、普段見慣れない物があった。
そこにあるのは不自然だけど、なぜか妙に場に馴染んでいて、誰も気にする様子がない。
それは大きな黒い鞄で、見ようによっては「ちょっと置かせてね、すぐ取りに戻るからさ」みたいな雰囲気。
僕は鞄の横に立った。
見たところ、際立った装飾はない。
平凡な布製の、少し大きめなスポーツバックみたいだ。
顔を上げて辺りを見渡す。
誰もこっちを見ていない。
同じ進行方向で信号待ちしている車の運転手も、ルームミラーを見ながら鼻毛を抜いているだけ。
もう一度鞄を見下ろす。
これは、落とし物だろう。
こんなところに『ちょっと置いていく』ハズがない。
周辺にはお店もないし、電話ボックスもない。
と、安全地帯に自転車が入ってきた。
僕は咄嗟に顔を上げ、信号を見上げた。
素知らぬ顔で口笛でも吹こうかとバカな事を考えて、あれは漫画の世界だと頭を振る。
やがて信号が青になり、自転車は鞄に見向きもせず安全地帯から向こう岸へ渡って行った。
これは、落とし物だ。
しかも、誰も気づく様子がない。
取りに戻ってくる人の気配もない。
三度も信号を見送って待ったのだから、間違いない。
僕の心臓は暴走した。
鞄に手を伸ばした。
「なにするんだ泥棒!」
なんて声がかかったらどうしよう。
鞄を持ち上げた。
随分重たい。
いや、めちゃくちゃ重たい。
でも声は掛からない。
考える。
もし走ったりしたら、無駄に怪しまれるかもしれない。
背後から誰かが追いかけてきたらどうしよう。
いや、僕は何も悪いことをするわけじゃないから、堂々と歩いて交番へ向かえばいい。
自然と早足になるのを意識しながら、それでもなんとか、警察署に到着した。
そう、幸いにも職場のすぐそばに、この市の管轄の警察署があったのだ。
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