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これから残った時間、色々なものを片付けていかなければならない。
「なあ、母さん」
「なんですか」
「喜美恵のドレスもいいけど、愛の初めての発表会だ。新しいドレスはどうだ」
「そうね。今風のお洋服のほうが喜ぶわね」
「今度の土日にデパートにでも行くか」
「あら、いいわね。じゃ、どこ行こうかしらね」
まだ覚悟は生まれていない。忘れてもいない。それでも、少しだけ、ほんの少しだけ、受け入れ始めている。
次の日曜、すっかり中味を入れ換え新品同様になったピアノに愛が向かっていた。
「教室に通っていた時にバイエルの下巻まで進んでたの。けっこう進むの早かったから辞める時に先生に、もったいないって言われて。私ももうちょっと通わせてあげたかったけど……。バイエルの下巻は学校のピアノでひとりで練習してずいぶん上手になったのよね」
愛が弾いている曲には聞き覚えがあった。
「これを発表会で弾くのか?」
「ん? アラベスク? ううん、これは弾かない。発表会で弾くのは別の曲。ね、愛」
喜美恵が言うと愛はピアノを弾きながらうなずいた。
「発表会の曲は練習しなくていいのか」
「練習するわよ。でも、お父さんがいないときにね」
「ねー」
愛がピアノを弾く手を止め、母親に向かって笑った。
「そうか。それにしても、確かにけっこう上手だな。昔のお前よりうまいんじゃないか?」
「やだ、まだそんなことないわよ。私、いちおうバイエルはちゃんと終わってソナチネ程度まで弾いてたわよ」
「そうだったか」
「あの頃、お父さん色々忙しかったし、私のピアノなんて聞いてなかったんじゃない? 発表会にも来なかったし」
「悪かった。確かになあ。色々と忙しかったからなあ」
「もういいわよ、その話は。それより、私も愛のピアノけっこう上手だと思ってたけど、新しい先生が意外と厳しくって、やっぱり先生についてなかったから癖ついてるって」
「そんなことがわかるのか」
「わかるのよお。それと、全然気がついてなかったんだけど、愛、右と左、よく間違えるって」
「大丈夫なのか?」
「大丈夫だって。けっこう多いらしいの、瞬間的に左右がパッと出てこない子ども。幼稚園児はたいていそうらしいけど、小学生でもけっこう間違えるって。ていうか、中学生とか大人でも左右ピンと来ない人いるって」
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