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「いい、愛。練習しなくていきなりうまく弾ける子はいないって先生言ってたじゃない。練習しないとうまく弾けないよって」
「でもー。そうだ、ママ弾いてみて」
「はいはい」
愛に代わって喜美恵がピアノに向かった。
「弾けるじゃないか」
弘明はすっかり感心していた。もう、ピアノの弾き方など忘れてしまったかと思っていたというのに。
「発表会、ママと一緒に弾くの、連弾」
「ダメじゃない、言っちゃ」
しまったという顔をする愛に喜美恵が言った。
「連弾するのか」
「もう、愛ったら。せっかく秘密にしようって言ってたのに」
「ごめんなさーい」
「連弾か」
「そうなのよ。先生が、お母さんも一緒にどうですかって言うから」
「そうか。ところで、さっき言ってたピアノを辞めた理由だがな」
「ああ、その話……」
喜美恵は何かを言い出そうとした。
「キミちゃーん、玄関まで取りに来てー」
買い物に出ていた悦子が帰ってきた。
玄関に向かおうとした喜美恵は立ち止まり、少し考えてからこう言った。
「お父さん、その話は、また今度ね」
「そうか」
それ以上は聞けなかった。
すき焼きの準備を手伝っている父親の姿は喜美恵には不思議に見えた。
食卓に並べられた食事をうまいともまずいとも言わずに食べている姿をずっと見ていた。こうして家族で鍋を囲むようなことがあっても、全て母親に任せて自分は食べるだけ、ずっとそうだった。
だから、父親が母親と並んで食事の手伝いをしているのが不思議だった。
「あら、最近はずっとこうよ」
悦子が言った。
「そうだったんだ」
「俺も定年になったら料理でも作るかと思ってな」
それも全部無駄になってしまったと思っているのだろうか。喜美恵には父親の気持ちはわからなかった。病気のこと、仕事のこと、定年のこと。
高校生の頃は父親と食卓を囲むことがイヤでイヤでたまらなかった。
この家を離れてから一度だけ、当時の結婚相手を連れてきたことがある。誰とでも合わせられる調子のいい奴だったはずなのに、父親とは合わなかった。あの時は奮発して寿司を取ってくれた。桶に盛られた寿司に手を伸ばすのは喜美恵の夫だけで、父親も母親も喜美恵もいつまでも手を伸ばそうとはしなかった。
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