楽しき農夫

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 桶に寿司を残したまま家を出た。すぐに、酔っ払った当時の夫に殴られた。辛気臭い連中のところに連れてくんじゃねえよ、とか、何かそんなことを言われた。安アパートに戻ってからも殴られた。痛いと言ったらまた殴られた。前歯が折れた。血塗れになりながら謝り続けた。近所の人に通報されるのが怖くて大きな声を立てることができなかった。  つまらなさそうに眠ってしまった夫の横で声を出さないようにして泣いた。親や友達と過ごした子供の頃の懐かしい思い出、楽しかった日々、そんなものが全部涙と一緒に溶けて流れ出てしまう。このまま涙を止めないと、何もかもが手の届かないところに消え去ってしまう。涙を止めなきゃ。でも、止められない。どうしても止められない。うるせえ、と言って蹴られた。我慢できずに大きく口を開けたら中に溜まっていた血が折れた歯と一緒にどっと溢れてきた。それでも声を立てなかった。  今、こうして両親と娘と楽しく食卓を囲んでいることが不思議だった。もっと前にこんな時間を作ることができたらどれだけ幸せだったか。  今さらかな、とも思う。  結局、最初の夫とは愛が生まれて半年もせずに別れた。愛を蹴り飛ばそうとしたのを必死で止めたその日、泣きじゃくる愛を抱えて区役所に向かった。サンダルのままだった。離婚届をもらって家に帰ると夫はいなかった。翌日、酔っ払って帰ってきた夫に頭を下げて離婚届を書いてもらった。その時も殴られた。何度も殴られた。  それで気が済むのなら、もうどうでもよかった。  とにかく部屋を探すのが先決だったが、顔の腫れた子連れの若い女に貸してくれる不動産屋はそうそうない。下町の外れ、風呂もついていない一間のアパートがようやく借りられた。仕事も探さなければならなかった。風俗にも面接にいった。が、顔の腫れた子連れの女は門前払いだった。何件も面接に回ったあげく、同情してくれたファミレスの女性店長が、客の前に出ない厨房の仕事なら、と言ってアルバイトで採用してくれた。子供も連れてきていいと言ってくれた。以前にも似たような話があったそうだ。
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