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「お父さんが、ガンであと一年。もってあと一年だって」
心の中が沸き立った。父が死ぬ。同時に違う気持ちがこみ上げていた。ようやく、父に会う理由ができた。夫の時のように、知らせを聞いた時にはもう会えなくなっていたのとはわけが違う。まだ、会える。
そう思うと急に心が落ち着いてきた。やるべきことができた。父親と会うのだ。ずっと会っていなかった父親に会う。愛を連れて。
仙台で一緒に過ごした夫を自慢したかった。夫が生きているうちは両親のことなど気にしたこともなかったが、今となると会ってもらいたかった。どうしてちゃんと籍を入れて、こんないい旦那さんと結婚できたよと報告しなかったのだろう。いくら悔いても、もうどうしようもないことだ。
「お母さん、私ね、東京に帰る。帰ってお父さんと会うから」
その日のうちに、喜美恵と愛は東京に向かった。
すき焼きで満腹になった愛は、風呂から上がったらすぐに眠ってしまった。
見てもいないテレビをつけっ放しにしていた。弘明も喜美恵も、あまり話すことが無かった。
「ピアノやめたわけ、話しておこうかと思うんだけど、聞いてくれる?」
聞いたほうがいいのか、弘明には迷う気持ちがあった。喜美恵がピアノ教室をやめると言い出した時、弘明は激しく怒った。おまえのためにピアノを買ってやったんだぞ、と言って喜美恵の頬を叩いた。喜美恵は涙を流しながら、それでもピアノはやめると声を張り上げた。ただ大声で泣き叫んだ。吼えるように泣いた。咽喉から血が出るかと思うほど泣く喜美恵を見て弘明の中で何かが途切れた。その日以来、喜美恵はピアノ教室には二度と行かなかった。そして、家のピアノにも二度と触らなかった。
「どうしてだ」
弘明が喜美恵に聞いた。
「ずっと言えなかったから」
「理由があったのか」
「あったに決まってるじゃない」
理由があったことは弘明にもわかっていた。けれど、あの時も、それから後も、喜美恵は理由を一切話さなかった。弘明も悦子も、結局、喜美恵から理由を聞けなかった。
「どうしてだ」
今、聞かねばならない、そんな気がしていた。
「あの頃、近所に住んでるのは同じ会社の人ばっかりだったよね。覚えてる? 小学六年生の時のあたしのクラス、全員同じ会社のひとだった」
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